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若一王子神社
現在の大町市街地は、この地の支配者である仁科氏によって都市計画が進められ、鎌倉時代から室町時代にかけて骨格が造られました。中央通りである千国街道に面して「市町」が形成され、町屋の裏側には飲料水として鹿島川の清浄な水を引き、表には「町川」が流れていました。
この水を分配する要の位置、市街地の北のはずれに、町の繁栄を願って祀られたのが若一王子神社です。仁科氏が厚く信仰していた熊野権現那智大社(くまのごんげんなちたいしゃ)を分社したと伝えられ、本殿は、地方色豊かな安土桃山時代の様式をよく留めており、国の重要文化財に指定されています。また、神社でありながら境内には三重塔(長野県宝)や観音堂(大町市指定文化財)が残るなど、神と仏を一体とする「神仏習合」の影響を色濃く残しています。
毎年7月第4日曜日とその前日には盛大な夏祭りが開催され、全国でも数少ない子どもの流鏑馬や舞台(山車)の曳き揃え、稚児行列などでにぎわいます。若一王子神社に参拝したら市街地の小公園や神社を巡りながら町中を散策するのも一興でしょう。
若一王子神社と文化財(デジまち:デジタルおおまち史)
◆若一王子神社公式サイト(外部リンク)
○若一王子神社例大祭
○流鏑馬会館
若一王子神社の祭りと流鏑馬の神事
大町を代表する夏祭りが、若一王子神社例大祭です。八坂神社の前夜祭、翌日には八坂神社例祭と神輿渡る御(天王祭)が行われ、祭りの雰囲気が盛り上がってきたところで、稚児行列と若一王子神社前夜祭、そして最後に王子神社例大祭と10騎の流鏑馬、6台の舞台(山車)が各町ごとのお囃子に合わせて登場します。実は、このように八坂神社と王子神社の2つの祭りが3日間にわたって続くのですが、これらを総称して「王子のお祭り」「大町の夏祭り」といっています。
この祭りのハイライトは、なんと言っても「いたい(射隊)ぼぼ」と呼ばれる少年たちによる「流鏑馬」です。各町の代表である10騎が、中央通りを行進して境内に集合し、多くの観衆の見守る中で白木を扇形に組んだ的に向かって馬上から矢を射ます。続いては境内には舞台が入り、祭りは最高潮に達します。この祭りが終わると北アルプスの麓も夏本番を迎えます。
大町の子ども流鏑馬由来
若一王子神社の流鏑馬は、今では佳麗で優美な全国一を誇る子ども流鏑馬です。平安時代から戦国時代にかけてこの地を治めていた仁科氏によって、五穀豊穣の祈りとして続けられたものです。流鏑馬の由来は、承久3年(1221)後鳥羽上皇が北条義時追討の命令を出したとき、院の西面の警護を仰せつかり、上皇に忠誠を誓った仁科盛遠が、出陣に際し神前に流鏑馬を奉納し、武運を祈ったことに始まったと伝えられています。また、京の都との関わりの深かった仁科氏は、京都加茂神社の流鏑馬に造形が深く、これを支配地であり故郷でもある大町に伝えたともいわれています。
天正10年仁科氏が滅びて後は、仁科神明宮の三神主のうちから1騎、仁科氏の分かれで宮奉行であった渋田見家から1騎、大町10人衆を代表して曽根原家より1騎、つごう3騎が出たもので、その後、宮本部落から1騎、渋田見家から1騎、大町10人衆のうちから交代で1騎を出すことに改め、維新に及んでいます。
三重塔(長野県宝)
桁行・梁間とも1丈3尺7寸6分(4.2m)、三間三重塔、柿葺。木時食故信法阿の発願で、宝永8年(1711)に竣工した。かえる股内部に、方位に合わせのう衣をつけた12支の動物という珍しい彫刻が施されており、松本平には唯一の優雅な塔である。
若一王子神社へのアクセス
JR信濃大町駅より約2km 徒歩25分
路線バス(市街地循環線)南俵町バス停より 100m 2分
バスは日曜祝日、年末年始を除く毎日運行
平日:2往復、土曜日:1往復 運賃:200円
市民バスふれあい号時刻表・路線図
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