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ホーム 施設案内 文化施設・博物館 大町市の文化財(大町市にある指定・登録文化財の一覧)

大町市の文化財(大町市にある指定・登録文化財の一覧)

【指定・登録文化財件数】 ※国:令和4年11月1日現在、県・市:令和5年11月30日現在
○国指定14件
 国宝(建造物)1件、国重要文化財8件(建造物3件、美術工芸品5件)、国特別天然記念物(地域を定めず指定)2件、国天然記念物3件(このうち地域を定めず指定2件)
○国登録7件
 国登録有形文化財(建造物)7件
○県指定29件
 県9件(建造物4件、美術工芸品5件)、県史跡1件、県天然記念物16件(このうち地域を定めず指定11件)、県無形民俗文化財3件
○市指定80件
 市有形文化財49件(建造物8件、美術工芸品41件)、市史跡6件、市天然記念物21件(このうち地域を定めず指定3件)、市民俗資料2件、市無形民俗文化財2件

文化財の所在地ならびに写真画像は「大町市文化財マップ」をご参照ください
※所在地について、種指定のほか一部天然記念物については記載していません(生物の保護、環境保全上等に支障が生じるおそれのあるもの)。また、名称等について、個人情報が含まれるものについては記載していません。詳細については大町市文化財センターへお問い合わせください(連絡先は本ページ最末尾に記載のとおり)。

●大町市にある文化財

名称・指定年月日 説        明
国指定文化財  
[ 国 宝 ]  
仁科神明宮本殿、中門(前殿) 2棟
S28.3.31
 
本殿は桁行3間・梁間2間・神明造・檜皮葺。中門(前殿・御門屋)は四脚門・切妻造・檜皮葺で、釣屋がこれらを連結している。ともに寛永13年(1636)の造営で江戸時代初期の端正な建築である。本殿は神明造の建築物として、わが国で最古の様式を伝えていることで極めて高く評価されている。釣屋は附属指定。なお、伊勢神宮にならい20年に一度行われる式年遷宮については、前回は令和元年(2019)に行われている。
[ 国重要文化財 ]  
盛蓮寺観音堂
S24.5.30
 
もとは東北側山中の山寺地籍にあった堂を移築したものと伝えられているが、仁科氏の祈願寺であった関係から、同氏によって造られたものと考えられる。室町時代に建立されているが、鎌倉時代末頃の創建当時のおもかげをわずかにとどめている。桁行3間・梁間3間の寄棟造で、松本平最古の木造建築物である。
木造棟札
S25.8.29
 
永和2年(1376)から安政3年(1856)にいたる480年間に及ぶ27枚が指定されており、棟札が単独で指定されているのは全国でもこれだけである。この棟札によって仁科神明宮の20年に一度の式年造営の様子、仁科氏の家系と家臣、造営事情等を詳細に極めることができ、地方文化の究明の上でも貴重な資料とされている。仁科神明宮蔵。
木造千手観音立像
S25.8.29
 
檜材・寄木造、像高168.2㎝。像造年代が平安時代末期であるが、技法や彫り方にはそれ以前のものを感じさせる。木像の胎内には願主・仏師などの名前や治承3年(1179)3月と年代など造像事情を記した墨書木札1枚、白銅製菊花双雀文鏡1枚、紙本千手観音摺仏28枚が納入されており、白銅鏡は附属指定となっている。藤尾覚音寺の本尊で、「藤尾の観音さま」と呼ばれ人々に親しまれている。
木造持国天立像、木造多聞天立像 2躰
S25.8.29
 
2躰は覚音寺千手観音立像の脇持で、檜材・寄木造。像高は持国天161.5㎝、多聞天157.6㎝。像の背面には、持国天・建久5年(1194)、多聞天・建久6年(1195)年と年号の陰刻銘が刻まれており、これが造像年代と考えられる。鎌倉時代初頭の造像であるが、作風は平安時代後期の作風を残している。
若一王子神社本殿
S30.2.12
 
一間社・隅木入春日造・檜皮葺で、承応3年(1654)の棟札1枚が付属指定されている。室町時代の末頃に仁科氏によって造営されたもので、建築様式に多くの地方様式を残している。
鉄鰐口
S32.2.19
 
面径24㎝で表面に安貞2年(1228)8月の陽刻銘が見られる。木舟にあった仁科氏の祈願寺跡から出土したものと伝えられており、鉄製で年代の明らかな鰐口としては、わが国最古のものである。このような珍しい鰐口が、この地に残っているのは、仁科氏文化の性格を語るものとして貴重で興味深い。木舟集落所蔵。市立大町山岳博物館保管。
御正体
S36.12.17
 
銅製の円盤に仁科神明宮の本地仏大日如来などを取り付けた懸仏で、指定されているのは5面であるが、ほかに11面が附属指定されている。裏面に「弘安元年卯月廿一日」の朱漆銘のあるものや「弘安九年十二月廿二日」の墨書銘のあるものがあるほか、「志ん名」「志んめいの御しやうたい」と記されているものがある。
旧中村家住宅 主屋、土蔵 2棟
H9.12.3
 
主屋は桁行14間・梁行6間・建坪84坪(約278㎡)の木造平屋・茅葺・寄棟造で、元禄11年(1698)建立と建築年代が明らかな民家として県内最古で、大きさも当時の民家としては県内屈指で、農村における居住形態を知る上で貴重である。
土蔵は桁行6間・梁行4間の切妻造で、安永9年(1780)と建築年代が判明するものとしては県下で古い例に属す。置屋根で軒支柱を立てて屋根の荷重を支える構造である。
[ 国天然記念物 ]  
高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石
T11.10.12
 
高瀬渓谷の湯俣川下流付近で温泉沈殿物(主に炭酸カルシウム)が河床に堆積して小さな火山のような形(噴湯丘)になり、中央の湧き口に白い小豆粒大の霰石(あられいし)(球状方解石)ができる現象が珍しい。
[ 国特別天然記念物 ] 地域を定めず指定されているもの(種指定)で、市内に生息するもの。
ライチョウ
S30.2.15
動物・鳥類
ニホンカモシカ
S30.2.15
動物・哺乳類
[ 国天然記念物 ] 地域を定めず指定されているもの(種指定)で、市内に生息するもの。
イヌワシ
S40.5.12
動物・鳥類
ヤマネ
S50.6.26
動物・哺乳類
国登録文化財  
[ 国登録有形文化財 ]  
平林家住宅 主屋
H29.10.27
 
主屋は間口7間の土蔵造2階建で、式台玄関や座敷棟を併設している。明治23年(1890)に再建された建物で、松本の開智学校などを手掛けた立石清重の設計により、防火や耐火の対策がなされた大町初の土蔵造町家として貴重。
平林家住宅 文庫蔵・塩蔵・漬物蔵
H29.10.27
 
文庫蔵・塩蔵・漬物蔵は3棟の土蔵を置き屋根形式の切妻造の屋根による一体化した土蔵で、東正面に下屋庇をつけている。文庫蔵は江戸時代後期の建立で、塩蔵・漬物蔵は明治2年(1869)に増築されたものである。
東京藝術大学山岳部黒沢ヒュッテ
H30.11.2
 
昭和35年(1960)に東京藝術大学山岳部によって建設された山小屋で、標高1,200mの尾根上に建つ。1階はコンクリートブロック造、2階は木造。折板状の片流れ屋根の軒を張出し、南西面に広く開口する斬新なデザインの山小屋で、テラスからは後立山連峰を望む。戦後の登山ブームの一端を示す山岳施設である。
旧北澤家住宅 主屋
R元.9.10
 
嘉永2(1849)年頃に建設(明治後期・昭和50年代改修)された、山間にある集落の庄屋宅で、間口の広い寄棟造茅葺(鉄板仮葺)の2階建、軒出桁造。山村景観の核をなす豪壮な民家として貴重である。
栗林家住宅(創舎わちがい) 店舗
R4.10.31
大正後期建設。木造2階建、瓦葺、建築面積108㎡。栗林家は大町組大庄屋を務めた旧家。近代以降も戸長、運送業、医院を営む。屋号は「輪違(わちがい)」。店舗は切妻造・平入・桟瓦葺で通りに面し、2階に床付座敷を配する。
栗林家住宅(創舎わちがい) 主屋
R4.10.31
江戸末期建設。木造平屋・一部2階建、瓦葺及び鉄板葺、建築面積119㎡。主屋は通りから門、庭を前面に介して位置し、南側の店舗側面後方と接続する。切妻造・平入で、元は板葺。
栗林家住宅(創舎わちがい) 門及び塀
R4.10.31
明治前期建設。木造、瓦葺、間口3.6m、板塀付、総延長8.9m。門は店舗の北に並んで通りに開く切妻造・桟瓦葺の薬医門。北側袖壁に潜り戸を設け、格式ある構えで歴史的景観を伝える。
長野県指定文化財  
[ 長野県宝 ]  
木造観音菩薩立像
S40.1.14
 
平安時代中期の製作と考えられるもので、欅の一木造。後に補われ修理された部分もあるが、平安時代初期の貞観様式を多分にもつ安曇平最古の木像である。像高5尺3寸3分(約161.5㎝)の立像。弾誓寺観世音保存会蔵。
若一王子神社三重塔
S41.1.27
 
弾誓寺六世木食故信法阿の発願で宝永3年(1706)から工事を始め、宝永8年(1711)に竣工した。蟇股(かえるまた)内部に方位に合わせ獣面人身という珍しい彫刻が施されており、この地方としてはまれに見る優雅な塔で、松本平で唯一の木造の塔である。棟札4枚が附属指定。
 
天正寺三重小塔
S41.1.27
 
若一王子神社の三重塔の原型とも言い伝えられ、10分の1の縮尺であるとされているが、細部の手法には若一王子神社の三重塔とは異なったところが見られる。造られた年代は江戸中期とみられる。
大黒町舞台
S62.8.17
 
諏訪の名匠二代目立川和四郎富昌により、江戸時代後期の文政9年(1826)頃までに完成したと思われる。二層構成・切妻起屋根・三輪形式の可動舞台。随所に入念巧遅な立川流の彫刻があり、美術的価値が高い。明治21年(1888)年に松本の本町二丁目から購入し、以来毎年7月の若一王子神社の夏祭りに市街を巡行している。大黒町自治会蔵。
霊松寺山門
H5.8.12
 
入母屋造・正面3間・側面2間の楼門形式の八脚門で総欅造(そうけやきづくり)である。和様の重厚な形式を基本にして、唐様を取り入れた折衷様式でいたる所に施された素木彫の建築彫刻は、江戸時代後期立川流の流れをよく表している。嘉永5年(1852)に諏訪郡高部村の藤森広八(二代目政因)が棟梁となって、松川村観勝院に建てられたが、同寺が廃寺となった明治11年(1878)に霊松寺へ移築されたものである。
銅造十一面観音坐像御正体残闕(ざんけつ)
H11.3.18
 
若一王子神社観音堂の現在の本尊。本来は懸仏であったものであるが鏡板を失い仏体のみとなっている。鋳銅造で像高19㎝、蓮華座の高さ3㎝の坐像で、右手は施無畏、左手には瓶中蓮を持っていたと思われるがこれも失われている。やや下膨れの顔が柔和で体型はふっくらとしており、彫りは浅く衲衣(のうい)も簡略であるが優美な仏像である。
山寺廃寺跡出土品
H11.9.16
 
鎌倉~室町時代に社閏田の東山中にあったと伝えられる山寺廃寺跡から出土した火葬骨の蔵骨器で、四耳壺1・瓶子2・土師質小皿1・青白磁水注1・写経石(法華経の一部が石に墨で書かれたもの)1がある。四耳壺・瓶子は古瀬戸で、鎌倉時代中期以前の優れた製品。水注は中国の景徳鎮での製造と推定される。大町市民俗資料館保管。
若一王子神社観音堂及び宮殿
H23.9.29
 
観音堂は江戸時代中期の宝永3年(1706)に建立された宝形造、茅葺・三間四面の和様建築。内部は表側2間通りを外陣とし、奥1間通りを内陣として宮殿(厨子)を置く。宮殿は禅宗様式を多く取り入れ、和様と唐様を折衷したものである。棟札が附属指定。
山の神遺跡出土品
R5.11.30
山の神遺跡は、大町市常盤にあり、縄文時代早期中葉(今から約9,000年前)を中心とした遺跡。本遺跡から発見された出土品のうち、とくに学術的に価値が高く、県内の縄文文化の一端を知ることができる貴重な資料として、押型文土器ほか4点(押型文土器3点、縄文土器1点)と異形部分磨製石器41点の計45点を指定。
[ 長野県無形民俗文化財 ]  
仁科神明宮の神楽
S44.7.3
 
仁科神明宮の秋の例祭に奉納される、能を取り入れた神楽。演目は剣の舞・岩戸神楽・五行の舞・水継・幣の舞・竜神神楽・道祖神の7座である。舞だけの座と、舞を伴いつつ謡曲によって天の岩戸・海幸山幸・天孫降臨の神話を展開していく座がある。
仁科神明宮・作始め神事
H2.2.19
 
仁科神明宮の春の例祭に、伊勢神宮の祈念祭(としごいのまつり)にならって行われている神事。鍬初めから苗代づくり・種播き・鳥追いまでの一連の水田耕作の所作が、神楽殿内を一坪の広さに仕切った中で演じられる。その年の作況を占う神事。
流鏑馬の神事
H13.9.20
 
毎年第4日曜日の前々日から3日間(旧来は7月15~17日、後に7月28・29日)の若一王子神社の例祭で、最終日に行われる。7~8歳前後の男子が化粧をして狩衣装束をつけ、飾った馬に乗り、的板めがけ弓矢を射る神事。この神事のもとは農作の豊凶を占う神事で、武士の間で盛んであった「やぶさめ」の形を取り入れた地方色の強い神事と考えられる。
[ 長野県史跡 ]  
上原遺跡
S35.2.11
 
昭和25~27年(1950~52)の4次にわたる発掘調査で、配石跡や竪穴等の遺構の発見があった縄文時代前期を代表する遺跡。配石遺構は2群あって、1号群は中心石柱1個、側石柱12個により南北径3.6m、東西径2.2mの楕円形に復元され、2号群はこの南に2.4m離れ、中心石柱1個、側石柱6個により径1.8mの円形に復元されている。竪穴は配石跡の南40mにあり、径2m・深さ1mの円形竪穴で側壁が階段状になっており、焚火跡も見られた。出土遺物では土器は縄文時代前期のものを中心とし、それに伴う石器は石斧・石鏃・石匙・石錐・玦状耳飾等がある。指定区域面積は約40,000㎡。
[ 長野県天然記念物 ]  
大塩のイヌザクラ
S37.7.12
静御前がこの地を通ったときに持っていた杖をさしたのが根付いて大きくなったという伝承から、「静の桜」と呼ばれる。目通り幹囲は8.45m、太い幹に比して樹高約20mと低いが、枝は四方に良く伸びており、樹姿が雄大である。開花期は5月下旬で、花径5㎜ぐらいの梅花状の白い花が穂状につく。このようなイヌザクラの巨木は非常に珍しく貴重である。
若一王子神社社叢
S40.4.30
 
約300本のスギと約130本のヒノキを主体にした、指定区域面積17,186.4㎡の社叢である。平坦地においてこれだけの面積の針葉樹林が見られるのは珍しく貴重である。
仁科神明宮の社叢
S44.3.17
 
国宝仁科神明宮を囲むスギ・ヒノキを主体とした、指定区域面積19,257.78㎡の社叢である。境内入口にある三本杉(現在中央1本を失っている)や国宝本殿の西側にあるスギは目通り周囲5m、樹高50mを超える巨木で、これらに加え境内には幹囲2mを超えるスギ20数本、ヒノキ10数本が生育し古い歴史を物語っている。
居谷里湿原
S46.8.23
大町8279番地10ほか
この湿原の状態は、ミズゴケのよく育ったところもあり、泥炭層の発達したところもあって、必ずしも一様ではない。湿原内にはモウセンゴケやミミカキグサ・タヌキモなどの多種の食虫植物のほか、ハンノキ・ミヤマウメモドキ・イソノキなどの木本と、ミズバショウ・リュウキンカ・ミツガシワなどの草本等、湿原特有の植物が見られる。また、県内では珍しい暖地性のハチョウトンボの生息地であり、ハナノキの隔離分布として学術上貴重な湿原である。指定区域面積は、20,902㎡。
大町市のカワシンジュガイ生息地
H19.1.11
北緯40~55度の範囲に分布する純北方系の淡水産二枚貝。氷河期には多く生息していたが、その終わりとともに高冷地の渓流にのみ姿を残すようになった「生きた化石」とも言える貴重な生物。生息地2箇所を地域指定。
[ 長野県天然記念物 ] 地域を定めず指定されているもの(種指定)で、市内に生息するもの。
ミヤマモンキチョウ  S50.2.24 動物・高山蝶
ヤリガタケシジミ    S50.2.24 動物・高山蝶
タカネキマダラセセリ S50.2.24 動物・高山蝶
クモマツマキチョウ  S50.2.24 動物・高山蝶
タカネヒカゲ      S50.2.24 動物・高山蝶
クモマベニヒカゲ    S50.2.24 動物・高山蝶
コヒオドシ        S50.2.24 動物・高山蝶
オオイチモンジ     S50.2.24 動物・高山蝶
ベニヒカゲ       S50.2.24 動物・高山蝶
ホンドオコジョ     S50.11.4 動物・哺乳類
ホンシュウモモンガ  S50.11.4 動物・哺乳類
[ 大町市有形文化財 ]  
広形銅戈(海ノ口上諏訪社)
S46.12.10
 
出土地等は明らかではないが、糸魚川地方または小谷村と推定されている。全長24.5㎝。銅戈は北九州から近畿地方に分布しているが中部地方以北の出土は稀で、弥生文化の伝播を知る貴重な資料である。大町市文化財センター保管。
盛蓮寺木造不動明王立像
S57.3.3
 
腰をひねるようにして右足に体重をのせて岩座に立つ。半眼半開、二牙を上下交互にあらわしている。右肩にたれる髪の一部・左臂・裙に傷が見られる他はほぼ完全であるが、右手に構える剣を失っている。鎌倉時代末の製作で台座・光背は後の時代に補っている。総丈98㎝・仏丈65㎝・岩座15.5㎝。
盛蓮寺木造薬師如来坐像
S57.3.3
 
室町時代前半の文安4年(1447)に製作された檜材の小像である。小さいながら作風は大まかにゆったりとしており大きな感じをあらわしている。本像の胎内に「文安第四丁卯三月廿四日 願主 喜香叟」の墨書銘がある。台座・光背・両手首・薬壺等を失っている。
大沢寺木造阿弥陀如来立像
S62.3.23
 
檜材・寄木造。全高78㎝。後補を繰り返していると思われ、躰部は室町時代末~桃山時代。頭部は古く平安時代の藤原様式が伺える。形状は整い均整がとれている。仁科氏の旧臣であった松村市左衛門の拝仏堂に安置されていたと伝えられる。
西正院木造大姥尊坐像
S63.1.14
 
檜材・寄木造。像高39.5㎝。頭に白布をかぶり、ゆったりとした単衣をまとい、帯を前に結び右脚を立てて坐った老婆の姿の像で、写実性に富み、量感も豊かな室町時代中期の作。台座を失っている。当地における山岳信仰の一面を伝える証左として貴重。
天正寺山門
S63.1.14
 
装飾的な要素がほとんど無い、純粋な和様の薬医門である。元禄元年(1688)の建立で宝暦10年(1760)に修理しているが、柱から梁間は建立当時のままと思われる。禅寺にふさわしい簡素な山門で、江戸時代中期の数少ない建造物である。
長性院木造聖観世音菩薩立像
H1.3.28
 
檜材・寄木造。総高184.3㎝、像高107㎝。弾誓寺6世木食山居による江戸時代中期の作。背面下部に「万躰之内 木食山居作」の墨書銘がある。木食山居の数多い仏像の中でも、最も円熟した時期における大型で入念な作品である。
盛蓮寺木造如意輪観音坐像
H3.5.31
 
檜材・寄木造。像高77.6㎝。後補の著しい像であるが、左膝の後部は造像当初のもので、鎌倉時代後期の像容がみられる。享保3年(1718)に修理したことを伝える朱漆銘が光背裏にある。一般的な如意輪観音の印相と左右逆になっている。
木舟薬師堂木造薬師如来立像
H3.5.31
 
檜材・寄木造。総高122.8㎝、像高113㎝。後補の著しい像であるが、体部と両肩から先の主要部分は造像当初のもので、鎌倉時代後期の写実的な像容が見られる。寛文6年(1666)に修理したことを伝える木札が残っている。
弾誓寺観音堂木造伝弾誓上人坐像
H4.5.19
 
檜材・寄木造・玉眼嵌入・糊粉下地に彩色を施す。像高75㎝。像容は衲衣の上に袈裟をまとい、趺坐して合掌する姿である。およそ江戸時代17世紀中頃の作。地方色でありながら彫技の冴えのみられる完成度の高い作品である。本像は江戸時代前期の常念仏盛行の時代を看取れる貴重な文化財である。
弾誓寺観音堂木造伝長音上人坐像
H4.5.19
 
檜材・寄木造・玉眼嵌入・糊粉下地に彩色を施す。像高78㎝。像容は衲衣の上に袈裟をまとい、趺坐して両手で数珠を持つかと見られる姿である。胎内の胸部及び背部の2ヵ所に墨書銘が記されている。江戸時代中期の元禄13年(1700)製作。弾誓寺4世願誉岳空寂阿の造像。本格的な彫技を用いた貴重な作品である。
盛蓮寺木造虚空蔵菩薩坐像
H6.4.28
 
桂材・寄木造。像高24.1㎝。製作は室町時代前半と考えられる。台座・光背・持物・彩色等は江戸時代後期に補われたもの。虚空蔵菩薩像は県下において室町時代前半に遡る類例が少なく、真言密教及び修験道の信州への伝播を示す貴重な仏像である。
天正寺木造薬師如来立像
H7.4.26
 
檜材・寄木造。像高261㎝。胎内に打ち付けられた木札の墨書銘から、造仏を修行とする作仏聖「生誉蓮入比丘」により、延宝5年(1677)5月に造立されたことがわかる。かなりの巨大像であり、しかも丁寧に仕上げられている点で文化的価値が高い。
大黒町追分の石造大黒天像
H8.3.25
 
嘉永5年(1852)に高遠の石工によって彫られた石像で、大黒町の名の由来ともなっている。現在のところ松本平では最大(全長約1.7m)にして最古のもので、彫刻技術も優れている。造立の由来を記した趣意書の版木も残っており、版木は附属指定。
山寺廃寺跡出土遺物
H8.3.25
 
写経石(法華経の一部が石に墨で書かれたもの)1、灰釉小皿1の2点。県宝指定されている「山寺廃寺跡出土品」と同じ社閏田の山寺廃寺跡から出土したものであるが、表面採集されたもので出土状況は明確でない。大町市民俗資料館保管。
若一王子神社木造伝十一面観音菩薩立像
H9.3.24
 
檜材・寄木造。推定像高180㎝。11世紀の製作。台座・光背・瓔珞(ようらく)の残闕(ざんけつ)は江戸時代の後補。明治時代の初めに燃やされて躰部が大きく焼損を受けているが、若一王子神社の本地仏で観音堂の本尊であったと考えられ、神社の歴史を知る資料として貴重である。
仁科神明宮銅製日岐盛貞奉納鏡
H10.3.25
 
円形、直径27.4㎝。鏡背には五大明王、奉納者名、紀年銘などが記されている。この鏡は江戸時代寛永13年(1636)の仁科神明宮式年造営の時に日岐盛貞によって奉納されたもので実用品ではない。
仁科神明宮木造棟札
H10.3.25
 
国の重要文化財に指定されている室町時代(1376)~江戸時代末期(1856)の27枚の棟札に続く明治時代~昭和時代の棟札6枚。仁科神明宮で20年に一度行われる式年造営の歴史を明らかにできる資料である。
仁科神明宮木造小笠原秀政禁制札
H10.3.25
 
江戸時代初期の慶長19年(1614)に松本領主小笠原秀政が、領内の主要な社寺に対してその保護を目的として交付したものの一枚である。檜板に墨で禁制文が書かれた縦34㎝、横61.3㎝の高札である。
山下神社木造小笠原秀政禁制札
H11.2.26
 
小笠原秀政が領民掌握のために社寺境内に交付した禁制札である。慶長19年(1614)5月15日の墨書銘が残る。高札上部には屋根形の桟があった痕跡が残るが、現在は失われている。法量は最大高33.8㎝、最大幅59.0㎝。
八坂神社の旧神輿
H14.2.22
 
「天王様の神輿」として市民に親しまれた神輿は、戦後しばらくまで7月15日の八坂神社例祭時に巡行されたものである。江戸中期18世紀初頭の製作とされ、若一王子神社観音堂宮殿などを建立した大町の宮大工・金原一門の手になったものと推定される。
飯嶋家所有「信越連帯新道」関係史料及び飯嶋家文書一括 附 その他の史料  
H15.2.26
 
江戸時代末期から明治初年にかけての野口村庄屋文書を中核とする。この中で注目されるのが信州内陸部と北陸沿岸部を結んだ交流最短路である「信越連帯新道」開削の関係史料である。指定数は、古文書類628点、その他看板等の史料84点を数える。
八日町毘沙門堂の木造毘沙門天立像
H16.2.19  
仏像の総高168㎝、仏高114㎝、台座高40㎝を測る。製作年代は頭部檜材が鎌倉時代、躰部が江戸時代初期、台座が江戸時代中期と補作が見られる。かつては右手に戟を持ち、左手に宝塔を掲げていたが、現在は欠失している。
西澤家所有文書一括 附 その他の史料
H16.2.19  
 
西澤家文書には江戸時代初期の庄屋関係文書と江戸時代末期の大庄屋関係文書とが含まれている。指定された古文書類は、慶長16年(1611)年~明治25年(1892)におよぶ258点、その他の史料1点を含む。
栗林家所有文書一括
H17.3.25
 
栗林家は江戸時代初期から村役を勤め、少なくとも享保年間から大町組の庄屋・大庄屋を勤めた家柄である。今回指定された文書の内容は、庄屋という役目上から関与した法令・藩制村制・租税・土地・林野・戸口・農林業・醸造・水利・土建・治安・宗教・凶災・救恤・身分・絵図等々の農政に関する文書と、大町の宿場に関わる交通・宿駅・運輸・通信・商業・都市等々の分野の古文書を包括して、極めて多彩である。
高橋家所有文書一括
H18.3.27
 
高橋家は大庄屋格を受け、江戸期を通じて松崎村庄屋、閏田村庄屋を兼務した家柄である。所蔵文書には、長年勤めた村方文書を主とする租税関係や用水堰普請などのほか、地域の特産である莨の栽培・出荷関係であるとか、家業の酒造関係文書がある。特出すべきものとして、文政8年(1825)に当地で発生した赤蓑騒動の見聞を記した六角鬼洞による『赤蓑騒動』は唯一の現存本として大変貴重なもの。
生婦平出土銅造瑞花双鳥八稜鏡
H18.3.27
 
八坂大平生婦平で昭和40年代に出土。直径11.7㎝、縁高0.7㎝、鏡厚0.3㎝を測る。制作年代は平安時代後期と考えられる。花弁を摸した八稜縁に双鳥や花文が施される唐式鏡から和鏡への過渡期を示す。
大平地蔵堂の木造地蔵菩薩立像
H18.3.27
 
像の制作年代は南北朝時代(14世紀前半)、檜材・寄木造で玉眼を嵌入する。全身に彩色を施しており、像高は36.5㎝、頭長は7.1㎝を測る。中央の仏師の作と考えられる像である。
小松尾諏訪神社本殿
H18.3.27
 
江戸時代後期の文化13年(1816)の建造。一間社・流造りで、向拝軒唐破風付、柿葺、総檜造りである。大工は大町組の金原周蔵で、彫刻は浅川豊八(大隈流)による。彫刻は優れ、丸彫りの唐獅子、象鼻や雲に麒麟の透彫りが残される。神社祭神は健御名方命。麻田家に建立に関する由緒書が残っている。
野平神社本殿
H18.3.27
 
祭神は天照大神(明神)、健御名命(諏訪)、誉田別命(八幡)の三神を祀り、江戸時代前期の元和5年(1619)8月10日の勧請と言われる。本殿は三間社・流造り、柿葺き、総檜造りである。現社殿は江戸後期の再建であり、白木彫刻に優れている。大工は大町の曽根原甚五郎、越後石地宿又四郎、仁熊村(麻績組)大工。
矢田川磨崖仏
H18.3.27
 
高さ約6m、幅約4mの砂岩製岩塊に、約200年にわたって5つの彫刻が刻まれたものである。年代の古いものから、①青面金剛像(庚申像)が元禄から享保年間、②地蔵菩薩像が江戸中期の享保3(1718)年、③庚申塔が江戸後期の文化4年(1807)、④徳本上人名合碑が19世紀前半、⑤大日如来像が幕末の嘉永3年(1850)となる。大日如来のお祭は、もとは4月8日に行なわれていたが、現在は5月8日に行なわれている。
北条峰の徳本上人追善供養塔
H18.3.27
 
砂岩製で残存する石碑高が108㎝、最大幅が85㎝を測る。碑文には「念仏供養 名蓮社号誉上人称阿弥陀陀佛徳本 文政元年寅年十月六日 徳本行者云々」とある。碑文によると、製作年代は江戸後期の文政元年(1818)。
曽山の善光寺千人参り名号塔
H18.3.27
 
江戸時代後期の弘化2年(1845)の製作。材質は砂岩製。総高は322㎝、そのうち塔身高は253㎝を測る。塔身正面は花頭形輪郭を彫り窪め、上部には円輪郭の中に阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の三体、いわゆる阿弥陀三尊像を半肉彫りしている。その下に「南無阿弥陀佛」と大書する。筆當大勧進権僧正願拜。石工は大平村石原の若林嘉久治勝重と高遠清水八五良安信による。毎年5月3日には講中によるお祭が現在でも行なわれている。平成6年(1994)に道路工事で現在地に移転されたが、もとは美麻地籍に所在した。
富士浅間神社本殿
H18.3.27
 
一間社・流造。規模は間口1間2尺、奥行1間5尺。現社殿は江戸時代後期の文化12年(1815)9月12日に再建されたもので、立川豊八(安曇郡長尾組岩原住)のよる建築。附属指定として棟札3枚がある。
富士浅間神社楽殿
H18.3.27
 
江戸時代中期の建立、伝元禄11年(1698)。大工は千見村真面の久兵衛による建築。木造茅葺き、6間四方で三面が板壁、床板張り舞台は幅11m、高さ2.8m、舞台中央には直径4.6mの廻り舞台を持つ。明治中頃まで歌舞伎を奉納していたという。
富士浅間神社絵額
H18.3.27
 
16面を指定。江戸時代、幕末の嘉永から安政年間のものが主体。大型のものが多く、保存も良好である。製作年代の最も古いものは、安永6年(1777)から昭和14年(1939)のもの。
千見神明宮本殿
H18.3.27
 
現在の本殿は江戸時代末期、天保12年(1841)9月の造営再建である。一間社・神明造。大工棟梁は大町の曽根原甚五郎、曽根原謙蔵。最も古い慶長17年(1617)の棟札と、藩奉行6名の連署が見られる幕末の万延元年(1860)の禁制札の2点が附属指定されている。
千見神明宮絵額と句額
H18.3.27
 
千見神明宮拝殿に奉納される絵額(絵馬)のうち6面、句額のうち8面が今回指定された。絵額の製作年代は天明7年(1787)~安政2年(1855)にわたる。また、句額は文化5年(1808)~明治33年(1900)製作のもの。
水上神社本殿
H18.3.27
 
一間社・流造り。彫刻が優れる。古い棟札として、江戸時代中期享保4年(1719)のものが残る。現在の社殿は文政8年(1825)建立、大工棟梁は越後市振の片桐利七とその一門によるもので、装飾彫刻に優れている。庄屋小林家にはこの時の造営帳が残っており大変貴重である。
下條家関守門
H18.3.27
 
松本藩と松代藩とが境を接する旧千見村に建てられた、関守の地位と格式を象徴する門である。建築年代不明。松本藩水野氏の代(1642~1725)に関守を置き、下條家はその任をまかされて当時50石をあたえられ、鉄砲組を配して警備にあたった。門正面は3間、奥行き2間の門に切妻屋根。北側には3間の長屋が残存する。現在はトタン屋根であるが、もとは茅葺き。
下條家所有文書一括
H18.3.27
 
元和年間(1615)より明治初期に及ぶ武家(藩の記録)、関守文書(46点・26%)を中心とする。藩政の一端を担った在地の史料として貴重。
中村家所有文書一括
H18.3.27
 
 
江戸時代初期の寛永21年(1644)から明治初期にかけての文書。青具村庄屋。藩政及び村政の実情をたどる上で貴重な史料である。また、「中村家年代記」のように、出来事や世の中の風聞など村ならではの史料が残される。
大塩高札場の高札
H18.3.27
H19.3.27 追加指定
 
もともとの大塩の高札場(大塩南村)は、現在、県天然記念物になっている「静の桜」より、100mほど南側の街道沿いに存在したものであり、指定された4点はいずれも江戸時代、大塩の高札場に掲げられていたものである。①「キリシタン禁制」(正徳元年(1711)・91×33㎝)、②「毒薬禁制」(正徳元年(1711)・124×49㎝)、③「にせ銭金制」(天保10年(1839)・82×36㎝)、④「親子・博奕・忠孝等の定め」(正徳元年(1711)・123×52㎝)。①~③の3点は旧中村家土蔵に展示されている。④は個人所有。
向生仏屋敷出土灰釉陶器広口瓶
H18.3.27
 
 
昭和初期、耕作中に発見されたもので、器高は19.7㎝、口径10.2㎝底径8.5㎝。口縁部の一部が欠損するのみで、ほぼ完形である。産地は岐阜県多治見市周辺の東濃地方産で、時期は大原1号窯式(10世紀前半)。
個人所有木造阿弥陀仏如来立像  H18.3.27
 
総高48.5㎝、像高28㎝、台座11㎝。木食山居作と推定される江戸時代中期の木像。
千見薬師堂の木造薬師如来立像
H18.3.27
常盤
薬師如来像は木食山居作と推定され、総高45㎝、像高36.5㎝、台座12.5㎝。附属指定の木造聖観音立像も木食山居作と推定される江戸時代中期の木像。聖観音立像は総高53㎝、像高43㎝、台座10㎝。
中村孝三述 『学びの糸口』
H19.3.27  
 
この手記は明治維新の学制発布当時の大町の人々の動きを記録し、単なる制度の解説書ではなく、唐突な制度改正に戸惑う地方の人々の気持ちを活写し、民衆の気持ちも察せられる重要な文献史料である。
八○栗林家文書一括
H28.3.24  
 
江戸時代中期以降、大町組の大庄屋を勤め、明治時代においても大町の要職にあった八丸栗林家に残された古文書類で、江戸時代・明治時代の大町のようすを知ることのできる近世(江戸時代)の文書1,811点、近代(明治~大正時代)の文書614点、計2,425点。
山千永田家文書一括
H28.3.24
 
 
美麻千見において江戸時代に大町組千見村の庄屋を勤め、一時期は大町組の大庄屋も勤め、明治時代初期に千見の戸長を勤め、旧美麻村の合併など新しい時代の村づくりに尽くした永田家に残された古文書類で、江戸・明治時代の山間地域のようすを知ることのできる文書として貴重。近世(江戸時代)の文書363点、近代(明治時代)の文書222点、計585点。
 
[ 大町市民俗資料 ]  
宮本・松崎紙紙すき用具コレクション
S50.4.15
 
社地区は江戸時代から紙すきが盛んで、宮本紙・松崎紙と呼ばれ珍重されてきた。この資料は当地で行われてきた紙すき用具を集めたもので、紙すきの全容を知る上で貴重な資料である。大町市民俗資料館保管・展示。
仏崎観音寺の千有一馬集絵馬
H9.3.24
 
安政2年(1855)に絵師村上完民、中藤月漢によって描かれた、縦210㎝、横475㎝の北安曇郡内最大の絵馬。画面下部に寄進者名などが村ごとに二段余にわたって列記されており、当時の庶民信仰の在り方などを示す貴重な資料である。
医王谷飯綱神社筒粥占い神事
H18.3.27
 
もと医王谷飯綱神社は八坂北桑梨・西の窪地に所属し、この神事はそこで行なわれていたものである。伝承によれば、江戸時代初期の元和7年(1621)に飯綱神社がその地に勧請されたときから神事は始められたと言われている。毎小正月の1月15日、神社に集まり、小豆粥を炊き、世の中・気象関係・農作物関係・天皇家など40項目の占いを行なう年頭の神事。郡内では唯一の神事。
水上神社の御輿巡幸
H18.3.27
 
担い棒つき鳥居形や神殿等で構成されていたが、現在は神殿部分が欠失し、代わって神体御幣と木製の四本鉾を神輿に立てて用いている。裃に帯刀姿の警護4人による巡幸の神事。神輿は江戸時代末期の作と推定される。
[ 大町市史跡 ]  
天正寺仁科氏居館跡
S59.10.6
 
鎌倉時代後期から室町時代末までの仁科氏の居館跡である。平城で、規模は東西180m・南北120m、外堀と内堀の二重の堀や土居を回らせた居館である。仁科氏の滅亡後にその菩提を弔って、ここに天正院を造ったと言われている。
新郷1号古墳及び副葬品一括
H8.3.25
 
古墳時代後期の6世紀末に築造されて8世紀初めまで使用された、松本平では数少ない積石塚である。横穴式石室で、埋葬状態もよく残っており、副葬品も豊富に残されていた。昭和58年(1983)に発掘調査。副葬品(出土品)は大町市文化財センターで保管。
権現山堂屋敷跡
H18.3.27
 
権現山の山麓に堂屋敷と言い伝えられてきた礎石が残る屋敷跡。永禄年間(1558~1569)、戸隠大権現が上杉の兵火の難を逃れるため、この地に奉遷を計画したとの伝承がある。しかし、文禄3年(1594)の鎮静により、夫筏別院から当地への奉遷はなかった。附属指定として、戴神社奥社に隣接するウラジロモミ(2本)、クロベ(2本)、カラマツ(1本)の計5本。
千見山城跡
H18.3.27
 
伝承では、城主は上杉方の大日方源吾長辰氏と言われる。また、武田方の山県昌景により、弘治2年(1556)に火攻めにされて落城したと伝えられる。曲輪や堀跡が残り、網戸、空堀、犬戻、厩、水の手、城裏、帳場、山城、一ノ木戸、二ノ木戸、西木戸、馬場、鍵掛などの地名が残る。本丸東西50m×南北20m、二の丸東西40m×南北30m、三の丸東西20m×南北15mを測る。なお、天保6年(1835)造立の城主供養塔がある。
大塩山城跡
H18.3.27
 
本丸跡(12×27m)、二の丸、一の曲輪、二の曲輪跡を具える複郭式山城。兵糧倉、水槽、城内、征城門跡、物見櫓跡等の施設が伝わる。山上に仁科氏を祀る祠があり、「木曽義貞、寿永3年(1184)の義仲戦死後、仁科盛遠によって大野田に隠される。安貞元年(1227)、森城に拠する阿部貞高を討つために大塩城を築く(信府統記)。後に義重は仁科の姓を名乗る」とする伝承がある。
堀の内遺跡
H18.3.27
 
これまでに、遺跡内では平成5年(1993)と平成12年(2000)における2回の発掘調査が実施されている。縄文時代早期から中世にかけての複合遺跡である。中世の遺構としては、居館が確認されている。大塩山城跡の根小屋と思われる。
[ 大町市天然記念物 ]  
オオヤマザクラ
S46.12.10
平22419番地3ほか
国内でも北部の地方で自生するサクラで、群生地としては大町市が南限であり、比較的分布密度の高い中綱湖・青木湖周辺の自生のサクラが指定されている。オオヤマザクラは淡紅色の華やかな色彩を持ち、病害虫にも強いサクラである。
霊松寺のオハツキイチョウ
S63.1.14
 
オハツキイチョウとは「お葉付銀杏」の意味で、ギンナンが葉の上に結実するもの。こうした葉はこの木の場合、全体で10%程度である。オハツキイチョウは現在のイチョウの進化以前の姿と言われ、先祖返りのような珍しい現象で学術研究上貴重な木である。
高瀬川の基盤岩
H2.10.23
 
松本盆地内部で確認された唯一の岩盤。この存在によって、従来はなめらかな地形と考えられていた盆地の岩盤が、実はかなりの起伏に富んでいることがわかった。また糸魚川-静岡構造線の通過位置を知る貴重な手掛りでもある。
一本木神社のカシワ
H3.5.31
 
目通り周囲3.35m、樹高25.5m。推定樹齢300年。二次林の構成種としては稀に見る大木で、推定樹齢の割には樹形の均整がとれ、腐朽部が少なく旺盛な活力を維持している。大径木としては残りにくいカシワの中で巨樹として現存するのは珍しい。
市立大町山岳博物館のトキ標本
H4.5.19  
トキは特別天然記念物であり、国際保護鳥として保護されてきたが、日本産のトキは絶滅した。このような状況下にあるトキの標本は大変に貴重なものである。市立大町山岳博物館のトキは大正8年(1919)11月、長野県大町岳陽高等学校のトキは大正6年(1917)11月にそれぞれ美麻で捕獲されたものである。
長野県大町岳陽高等学校のトキ標本  H4.5.19 
海ノ口のアカマツ(カサマツ)
H5.6.25
 
樹形は単幹の傘形で、樹高18m、目通り周囲4.17m。樹齢は300年以上と推定される。まっすぐに伸びた樹幹は地上9.5mの位置で大枝に3分岐して、それが広がり傘形となっている。この樹形から地元の人々は「カサマツ(笠松)」と呼んで大切にしている。
中シマのモリアオガエル繁殖地
H6.4.28
 
モリアオガエルは樹上に泡状の卵塊を産む特異な生態をもつカエルで、産卵は梅雨期の雨の降る夜間に行われる。大町市のモリアオガエルの繁殖地は5ヵ所しかなく、特に中シマは比較的まとまった産卵が見られる貴重な繁殖地である。
須沼薬師堂のカツラ
H6.4.28
 
東西一対のカツラの木は、薬師堂の門木として大切にされてきた。市内最大のカツラと思われるが、均整のとれた樹形をもち田園風景の中にひときわ目立っている。東幹は樹高20.5m、目通り周囲3.5m。西幹は樹高25.5m、目通り周囲4.1m。
西山西原のイチイ
H7.4.26
 
イチイは別名アララギともいう。イチイがひときわ目立つため、この木のあるリンゴ園は通称「アララギ園」と呼ばれている。樹高12.5m、目通り周囲2.95m。雌雄異株で、この木は雌木である。イチイは大木として残るものは極めて少なく貴重である。
大黒町追分のシダレザクラ
H7.4.26
 
大黒天の石像の脇に生育しており、「大黒様のシダレザクラ」と呼ばれ親しまれている。樹高8.5m、目通り周囲3.05m。推定樹齢は約150年で、石像の製作年代と重なる。シダレザクラでは市内最大のもの。
三日町若宮八幡宮のヒノキ
H9.3.24
 
樹高29m、目通り周囲5.1m。三日町分水集落の氏神である若宮八幡宮の御神木で、均整のとれた自然樹形を保っている。ヒノキは優良な建築用材であるために大径木として残るものは稀で貴重なものである。推定樹齢は400年以上。
西山城山のエドヒガン
H9.3.24
 
樹高29m、根回り周囲5.33mで、東西二幹に分かれたエドヒガンザクラ。西山城跡の急峻な北斜面に生息しており、谷側に向かって枝を張る自然樹形である。この樹を切ると山が崩れると言い伝えられ、これが大径木になった一因となっている。
高根町曽根田のエドヒガン
H10.3.25
 
単幹で均整のとれた傘形の樹冠を呈する、樹高12m、目通り周囲4.65mのエドヒガンザクラ。推定樹齢は300年程で、戦前までこの地にあったお堂との関係が考えられる。地元には400年程前に遊行僧がこの樹を植えていったという伝承がある。
姿見池のマメシジミ
H16.2.19
 
マメシジミは二枚貝綱マルスダレガイ目マメシジミ科に属する。小形の二枚貝で、殻長は3~5mmを測る。地域指定された姿見の池は、面積は1.5㎡の小さなものである。本種は今のところ市内ではここだけに確認されている貴重種である。
大倉のイチイ
H18.3.27
 
昭和8年(1933)に旧長野県天然記念物指定。昭和44年(1969)、県条例の全面改正により指定解除。坪庭に鉢植えしたのが大木になったと伝えられ、伝承では樹齢約1,000年と言われている。目通り4.73m、根周り4.7m、高さ21.3m。
水上神社の大杉
H18.3.27
 
水上神社の御神木。目通り6.30m、根周り7.67m、高さ53.1m。伝承では樹齢750年余りと推定されている。「水上神社の小楢と杉」の名称で昭和22年(1947)に旧長野県天然記念物指定。楢は現在枯れて切り株のみが残る。
若栗のアオナシ
H18.3.27
 
目通り周囲4.31m、樹高16.8m。成長に伴う融合性の枝幹、均整のとれた美しい立木。基部には洞が見られるが、近年保全対策も取られて樹勢も安定している。
[ 大町市天然記念物 ] 地域を定めず指定されているもの(種指定)。
大町市のヌマカイメン
S62.3.2
かつては世界各地に広く分布していたが、開発や汚染などにより急速に姿を消しつつある淡水海綿の一種である。長野県下では大町市のみに生息し、希少かつ貴重な生物である。
大町市のカワシンジュガイ
S62.3.2
北緯40~55度の範囲に分布する純北方系の淡水産二枚貝。氷河期には多く生息していたが、その終わりとともに高冷地の渓流にのみ姿を残すようになった「生きた化石」ともいえる貴重な生物。
大町市のキザキコミズシタダミ
H13.6.27
キザキコミズシタダミは日本産ミズシタダミ科の希少種の1種に数えられている。カワシンジュガイとともに氷河期の生き証人(遺存種)ともいえる貝である。国内では大町市にしか生息していないと考えられる貴重な固有種である。
 
 

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大町市文化財センター  住所:大町市大町4700
TEL: 0261-23-4760
FAX: 0261-23-4773
E-mail: bunkazai@city.omachi.nagano.jp

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