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早春賦の歌碑と藤田湘子の句碑(平成21年2月)

 先日、川崎市にお住まいの方からうれしいお手紙を頂きました。「暮には、文化会館等をご案内いただき本当にありがとうございました。お蔭様にて亡き師藤田湘子の句碑にやっとめぐりあうことができ・・。」
 暮れも暮れ、昨年大晦日の午後、近所にある市営運動公園で犬を連れて散歩していますと、一人の初老のご婦人が、長靴にリュック姿で雪を踏みしめながら、なにやら探している様子。声をおかけしますと、「早春賦の碑のある大町公民館はこちらだったでしょうか。確か大糸線の無人駅で下車した覚えがあるのですが。」とおっしゃいます。私が、その碑は公民館・大町市文化会館の前庭にあることを話し、そこへ行くには、街なかに戻り北へ歩くか、又は信濃大町駅へ行き電車で一駅行くことになると説明しました。話し終えると、私は足元の犬に促されるように散歩の先を急ぎました。

 しばらく歩いてから家に戻り、先ほどの一件を家内に話しますと、すかさず家内は、「そこまで送ってあげればいいのに。」と、鋭い口ぶり。思わず、夕暮迫る雪の道に足を取られながら、ご婦人のひとり歩く姿が脳裏に浮かびます。あわてて車で後を追うと、その方は、すでに街なかの高見町にまで行っていました。「お送りしますよ。お乗りください。」と誘い、車中でお話の続きを伺うと、わざわざ川崎市からおいでになり、松本に宿を取って足を伸ばし大町に来られたとのこと。おぼろげな早春賦の碑の記憶を辿って無人駅の南大町駅で下車し、先ほどの運動公園に来られたのでしたが、実は、文化会館は信濃大町の一つ先の北大町駅前だったのです。

 さらに、訪ねたいのは早春賦の碑ではなく、ある句碑だというのです。それは、藤田湘子の句碑で、近くにあるはずなのです、ときっぱり。恥ずかしいことに、私は俳句に疎く、藤田先生のお名前も、またそのような碑があることも知りません。で、とにかく行ってみれば何とかなると思い、文化会館の前に車をつけたのです。

 大町が発祥の地と言われる「春は名のみの風の寒さや」で始まる有名な早春賦の歌碑は、文化会館の正面にあり、すぐに見つかったのですが、さて、句碑のほうはありません。もしやと、会館の北に隣接する文化公園に回ってみますと、雪のなか、欅の木々の間にようやく黒御影石の碑が見つかりました。
 碑には、「 あかつきに 雪降りし山 神かへる  藤田湘子 」と刻まれています。ご婦人は碑を前にして、「ああ、やっと来ることができた・・・。」と感慨深げにたたずみ、何枚かの写真をとっていました。帰りには近くの若一王子神社へ回り、昨年大修理を終えたばかりの三重の塔を案内してから、大町駅へお送りしました。

 駅での別れ際、ご婦人は小さなリュックの中から、おずおずと清酒の小びんを取り出し、お礼といっては何ですが、と私にくださるのです。先生の碑に供えようと思い、持ってきたのが、碑が現代的なデザインだったため、捧げるのをためらわれたとのこと。私も、少しはにかみながら名刺を差し出し、自己紹介をしてお別れしました。

 さて、後日インターネットで調べてみますと、藤田先生は水原秋桜子に師事され、俳句誌「馬酔木」の編集長などを務め、また鷹俳句会を主宰されました。豊かな感性と先進性を持ち、深い叙情性のある句風で知られ、NHKの俳句講座にも出演されていた高名な方だったと知りました。
 さらに、建立のいきさつを知ろうと市役所の担当関係部署に尋ねますと、碑を建立した当時の記録を探し出して来てくれ、それによりますと、先生は国鉄に在職当時、大町温泉郷にあった保養施設に何度も滞在され、もともと大町とのご縁の深い方でした。市内でも句碑建立の機運が高まり、先生が句にも詠まれている北アルプス蓮華岳を間近に仰ぐ、この文化公園に建てられたとのことで、平成10年5月17日に除幕式が挙行されました。

 それにしても、わざわざ恩師の碑を訪ね、雪深い大町までおいでになったこの方の、俳句と恩師に対する一途なお気持に、あらためて師弟の絆の確かさを感じます。碑に刻まれた句に託す藤田先生の想いは、私には到底考えが及ばないのですが、じっくり反すうし、なんとか味わうことできればと思います。

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