本文へジャンプ
大町市。北アルプスの麓、信濃大町。 
サイトマップスマートフォンサイト
Google  
文字サイズ
文字を小さくする文字を標準サイズにする文字を大きくする
トップページ市民の方へ施設案内事業者の方へ観光情報イベント
現在のページ
現在位置:HOMEから文化講演会「長野絹子と青い目の人形たち」(平成27年3月)
更新日: 2015年3月31日

文化講演会「長野絹子と青い目の人形たち」(平成27年3月)

 先月初め、市内で講演会が開かれました。―世界の平和は子どもから―というサブタイトルが付けられたこの講演会は、仁科路研究会の主催によるもので、講師は元信濃教育会会長で大町市教育長も務められた牛越充先生です。
 ちなみに、仁科路研究会は、郷土に愛着を持つ皆さんが集まり、この地方の自然、動植物、歴史、民俗などの学術研究を目的として昭和51年に誕生しました。大町市文化財センターを拠点に活動しており、機関誌「仁科路」は現在141号まで発行されています。毎月1回程度開催される講座は市民にも開放され、「寺子屋」のような自由な学びの場となっています。

 昭和の初め、もう90年近くも前のこと、日本とアメリカの子どもたちの間で人形による交流がありました。昭和年のことで、大正末期の治安維持法の制定に続く時期で、金融恐慌、山東出兵が起こり、やがて昭和年の満州事変の勃発と、徐々に戦争へと突き進んでいく時代でした。
アメリカでも、日本人排斥の動きが急で、日米関係は日増しに悪化の一途を辿っていました。
 そのような時代に、政治的緊張を和らげようと、平和への願いを込めた親善活動が展開され、アメリカから「青い目の人形」が日本に贈られ、その答礼として日本からも全国各県から人形がアメリカへ贈られました。「長野絹子」もこの時、長野県から旅立ちました。
 
 
しかし、その後、太平洋戦争の混乱により、この人形による交流のことは忘れ去られていましたが、戦後になってから、相互に人形を贈りあった親善交流があったことの意味を考えようという動きが始まりました。平成の時代に入り、アメリカへ渡った人形も里帰りする事例も徐々に増え始め、長野県でこの活動を担ったのが県内の先生方で組織する信濃教育会でした。

 講演で牛越先生は、長野絹子の里帰りを実現する活動を通じて、活動に携わった多くの子どもたちや保護者、そして展覧会の会場を訪れた多くの皆さんが学んだことについて、熱心に話されました。

牛越先生による講演の様子
 
 この講演のレジュメをもとに、あらためてネットで調べてみますと、そもそも人形の交流の発端は、同志社大学で教鞭をとった親日家の宣教師シドニー・ルイス・ギューリック博士が、帰国後に広く呼びかけ実現したものです。その頃、アメリカでは反日機運が高まり「日本人移民禁止法」の成立への動きが広まっていました。勤勉で礼節を持った日本人をなぜ排斥するのか、との熱い思いからの交流計画でした。

 まず、アメリカから青い目の人形がはるばるやってきました。その人形は子どもたちが持ち寄ったお金で購入し、衣装や付属品を手作りして贈ったものだそうです。この運動が子どもたちを主体として進められたことについて、博士は、「平和を望む者は、子どもの純真な心に、それを書き込まなければならない」と語っています。
 一方、日本での受入れには、経済界で大実業家として活躍し、すでに一線を退いていた渋沢栄一が窓口となって奔走しました。渋沢はすでに86歳にもなっていました。贈られてきた人形の数は、12,739体にも上り、うち長野県には286体がやってきたとのこと。各地の幼稚園や学校に配られ、さかんに歓迎されたといいます。

 しかし、その後、日本では戦時体制の中、反米意識の高まりにより、敵国のものとして、人形の多くが焼かれたり、壊されたりして処分されたそうです。牛越先生によりますと、かろうじて破壊を免れた逸話として、「人形に罪はない」との校長の英断で生き残った人形もあったそうです。処分されるのを忍びなく思った人たちが、学校の石炭小屋、押入れや天井裏などに隠したりしたのだそうで、県内に残るこの時のエピソードが紹介されました。人形が残った背景には、様々なドラマがあったのです。

 そして、戦後しばらくたって人形が発見されるようになり、過酷な運命を背負った人形たちに光が当てられるようになりました。全国で320体ほどが残されていて、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されています。このうち、長野県下で確認されているのは30体だけですが、この数は全国の10分の1を占め、最も多いことになります。
 当日、講演会場には、当時、小谷村南小谷小学校に贈られてきた「ミミー」が展示され、交流の証人として聴講された皆さんに数奇な運命を辿った歴史を伝えていました。

 その「青い目の親善大使」が贈られてきた昭和年の11月に、日本からは答礼として58体の日本人形が海を渡って行きました。長野絹子の絹子という命名は、当時長野県が全国有数の養蚕県であったことに由来しているそうです。ちなみに、新潟県は新潟雪子、山梨県は山梨富士子、静岡県は、というと富士三保子だそうです。これらの人形は、当時最高の工芸技術を駆使して丹念に作られたそうです。人形ばかりではなく、嫁入り道具のように箪笥や鏡、茶道具など数々の調度品が添えられていて、これらも精緻なつくりで、衣装やお道具を合わせると、1体あたり当時の金額で350円、今の貨幣価値に直すと300万円近くになるそうです。

 信濃教育会の熱心な要請と、絹子を保管していたデラウェア州歴史協会博物館の好意により、招致の思いは実を結び、里帰りできることになりました。ところで、博物館では、この人形はもともと「ミス樺太」という別の名前で呼ばれていたのだそうです。しかし、人形が身に纏っていた着物の柄が決め手となって、長野絹子であることが判明したとのことです。渡米してから数奇な運命に翻弄されていた絹子は、70年間の人違いの呪縛からようやく解放され、平成16年6月21日に念願の里帰りが実現しました。

 そして、7月から半年間をかけて長野県下9会場で巡回展が開かれました。展覧会では、県内に残されていた28体の青い目の人形とともに展示され、期間中は5万人もの人々が会場を訪れました。絹子に出会った皆さんは、平和の尊さを実感するとともに、日米双方の人形を残した当時の人たちの優しさに感激して「さすが信州、長野の優しさだ」と感想を残した方もいたそうです。
 絹子は平和の尊さと友情の大切さを子どもたちに伝える役目を立派に果たし、巡回展を無事終えた絹子は、年後、子ども達の世界平和への願いが込められた「子ども世界平和宣言」とともに、再びアメリカに帰って行きました。

長野絹子


長野絹子に添えられた調度品

 ところで、日本からアメリカに渡った日本人形は、現存が確認されているのは58体のうち、44体だそうです。日本に残る青い目の人形に比べると、ずいぶん多く残されていることになります。77年もの歳月を経て絹子の里帰りを果たした牛越先生は、率直に「・・・良くまあ今日まで生き抜いてきたなあ」と、しみじみ述懐されています。そして、互いに排斥し、排斥されている国同士でなぜ、友情の人形交流ができたのか、また、絹子の持参した嫁入り道具への気配りは何だったのか、さらには、展覧会で人形と対面した多くの人々が深い感動に包まれたのは何故だったのかを静かな口調で話されました。答えは、「優しさ」の一語に尽きるそうです。

 里帰りを企画してから、子どもたちからお年寄りまで幅広く呼びかけ展開した募金活動は3,200万円に達しました。この中には、学校を挙げてアルミ缶を集めて募金した子ども達の善意も含まれています。この熱心な取り組みについて先生は、学習による理解の力と言います。

現在、先生は長野県生涯学習インストラクターの会の会長を務められていて、日ごろ、身の周りの全ての事柄が生涯学習のテーマと話され、また、学習とは他者と生きること、人間として生きることだと語っておられます。 
お問合せ
問合せ先: 庶務課秘書係 内線 507
E-mail: hisyo@city.omachi.nagano.jp
アンケート
 より良いホームページにするため、皆さまのご意見をお聞かせください。
 なお、お答えが必要なご意見等はこちらではお受けできません。問合せ先に電話またはメールでお願いします。
このページは役に立ちましたか