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ウェストンと大町(平成24年11月)

 『北アルプス開拓誌』という本があります。日本アルプスの近代登山の歴史を切り開いた偉人を描いた本で、槍ヶ岳の開発に生涯をかけた穂苅三寿雄、針ノ木岳に情熱を注いだ百瀬慎太郎を始め、白馬岳の父と呼ばれた松沢貞逸、鹿島のおばばと山男に慕われた狩野きく能、そして上高地明神池に山小屋を開いた上條嘉門次ほか各氏の業績を取り上げています。

 著者の中村周一郎氏は大町市の職員として勤務され、観光課長を最後に退職されて文筆活動に入られた方で、本の初版は昭和56年となっています。この本は今年の春、市内の幼稚園の園長さんを務められた関英晴先生からいただいたもので、関先生は牧師さんでもあります。

 これらの山の著名な先覚者達のうち百瀬慎太郎は、近代登山の黎明期、明治25年、大町で旅館を営む金吾の長男として生まれ、対山館の主人として、針ノ木岳を中心に登山の普及に生涯を尽くしました。地元の大町では、慎太郎の偉業をたたえて毎年6月第1日曜日に、針ノ木大雪渓で開山祭「針ノ木岳慎太郎祭」が開かれています。

 さて、日本の近代登山に名を刻んでいる有名なウォルター・ウェストンは、英国人宣教師として来日し、欧米に広く日本アルプスの名を知らしめた人としても有名です。登山家としても名を成しており、通算3回、約12年に亘る日本での滞在の間に、国内各地の山々を精力的に登っています。

 ちなみに「日本アルプス」の命名者は、同じ英国人のウィリアム・ガウランドという人で、大阪造幣寮(現在の造幣局)の技師として招聘され、長年の日本滞在中に、古墳の研究に没頭するかたわら、全国各地の山にも登っています。そしてこの「日本アルプス」という名を著書に冠して刊行し、本場ヨーロッパアルプスにも劣らない日本の山岳のすばらしさを欧米に広めたのがウェストンなのです。

 ウェストンは、山登りのため何回か、大町に来ています。明治26年8月を最初に、翌27年7月白馬からの帰途、大正2年9月明科から白馬へ向かう途次、それに翌3年の室堂から針ノ木峠を越えて、と、私が本やネットを漁ったところ4回確認できます。
 このうち、明治26年8月、針ノ木峠を越え立山に向かうために長野から大町に入り、慎太郎の生家対山館に泊まった時には、慎太郎はウェストンに遭遇していると思われます。しかし、この時慎太郎は数えで2歳といいますから、たぶん本人も覚えていることはないかも知れません。
もっとも、慎太郎は、大正2年8月、高瀬入りから烏帽子、野口五郎、鷲羽、三俣蓮華を踏破し、初めて槍ヶ岳に登頂していますが、帰途に上高地へ下り、徳本峠を経て島々の清水屋に宿をとった時、偶然同宿したウェストンと会い、ひと時の会話が交わされたようです。

 ウェストンのこの対山館滞在は、明治26年の8月5〜7日のことです。この折の大町の印象を、ウェストン自身の著書『日本アルプス−登山と探検(MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS)』の中で描いています。

 宿泊した翌日、日曜日の朝の情景です。
「朝のあいだ、私は、道路の反対側の家から歌声が聞こえてくるのに、心を引かれた。その歌の調子は、実際、立派なものではなかったけれども、外へ出て尋ねてみると、これは日本人のキリスト教信者の小さいグループの本部である事が分かった。キリスト教は、往往、外国の助力がなくても、この帝国の奥まったここかしこに、深く入り込んでいるのである。」

 この訳は、平凡社ライブラリーの岡村精一訳です。関先生は、英文の写しも下さったのですが、私の訳では心もとないので、関先生の書かれた文章からそのまま孫引きさせていただきました。
江戸時代が終わってまだ20数年しか経っていない明治中期の大町の街に、キリスト教の讃美歌が流れていたなんて、ちょっと驚きです。長い鎖国の閉塞を経て、日本人が宗教を含め新しい文化の受容を渇望していたということなのでしょう。ちなみに、この文章に出てくる「キリスト教信者の小さいグループの本部」というのは、現在、市内東町にあって活動を続けている大町教会の前身にあたるのだそうです。

 ところで、ウェストンは、長い日本での滞在を終え、故国イギリスに帰って余生を送り、1940年(昭和15年)に78歳で世を去りました。お墓はロンドン市内にあるそうですが、この春市職員となったS君が、今年2月に現地に赴き、ウェストンが眠っているお墓にお参りしたそうです。
その時、写真を撮ってきたとのことで、お借りして掲載します。伺いますと、嘉門次小屋の女将さん上條久枝さんに随行して訪れたのだそうです。嘉門次小屋の創始者で、山案内人としても登山史に名を残している上條嘉門次は、明治26年ウェストンが前穂高岳に登った際にガイドを務め、以後20余年に亘る深い親交を結んだとのことです。
 

 関先生からはもうひとつ、興味深いお話を伺いました。大町市の西に堂々と聳える後立山連峰の爺ケ岳は、春に現れる種まき爺さんの雪形で知られていますが、この3つの峰を持つ山の姿は、旧約聖書に出てくる聖なる山「ヘルモン山」に似ているのだそうです。しかも、この山は、別名ジュベール・アル・シェイクともいい、名前の意味は「白髭爺様」とのこと。我が爺が岳と名前がそっくりなのが何ともご縁を感じます。ネットで詳しく調べて見ますと、この山は中東レバノンとシリアの国境にある標高2,814mの山で、2,670mの爺ケ岳より150mほど高く、砂漠の乾燥地帯にあるにも関わらず、ほぼ年中雪に覆われているそうです。先生は、この9月初めにツアーに参加してこの地を訪れ、この山を実際に目で見て、さらに山の別名まで現地のガイドさんに確かめて来られたそうです。

 また、関先生の見立てでは、爺ケ岳の雪形の2人の種まき爺さんの形は、「ヘルモン山」にキリストが登った時に現れたというモーゼとエリアの姿に似ており、さらに中峰の右下に出る「十」は十字架に見えるといいます。どちらの話も、さすがに聖書とともに暮らす牧師さんだなあと思います。

 アルプスの麓に暮らしていて、こうした山にまつわる興味深い話を伺いますと、山への愛着が一層強くなります。美しく豊かな自然に恵まれた大町市は、山岳文化都市を標榜し、市立大町山岳博物館を中心に、山岳文化の研究と普及に取り組んでいます。これからも、北アルプス一番街、山の街大町から山の面白い話題を発信し続けることができればと思います。

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