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ホーム ローマ人の物語…長い読書の話(平成24年3月)

ローマ人の物語…長い読書の話(平成24年3月)

 古代ローマ帝国の歴史をまとめた塩野七生著「ローマ人の物語」をようやく読み終えました。新潮文庫版で順次刊行された全43冊を、平成17年に読み始めて以来、去年の暮れまで、足掛けおよそ7年間も読み続けました。
古代ローマの建国は紀元前753年とされていますから、395年に東西2つに国が分かれローマを首都とした西ローマ帝国が滅亡した476年まで約1200年、また、もう一つの首都コンスタンティノープルが陥落して東ローマが滅亡したのが1453年ですから、これまでを数えると約2200年続いたことになります。「ローマは1日にして成らず。」ということわざがありますが、この長いローマの歴史を、この本で私はたった7年で通読したことにもなります。

この本は、もともと単行本として出版され15巻が完結していたのですが、その後文庫本としても出されました。文庫では結局全43冊になったのですが、年に3〜9冊ずつ、9年もかかって刊行されたのです。奥付を詳しく見てみますと、平成14年6月に初めて発刊されその年の9月までに7冊、そのあと2年置いて16年9月から11月までに9冊(16巻まで)、翌17年9月から10月までに7冊(23巻まで)、さらに18年9月から10月に5冊(28巻まで)。そして、19年以降は毎年9月に3巻ずつで、23年9月に最後の41巻から43巻までの3冊が出され、ようやく完結しました。

私とこの本との出会いは、実は当時住んでいた近所のBOOK-OFFの書棚で文庫の最初の5冊が目に止まり、古本で買ってきたのが始まりでした。文庫版で読み始めたものですから、既に完結していた単行本の方を読むこともせずに、最後までずっと毎年の文庫版の発行を待って読んでいたのです。初めはまさかこんなに長編の著作だったとは知らず、文庫本が発刊されるたびに買いに行っていました。そのうち毎年秋の発行だとわかるようになってからはそれを心待ちにしつつ、出版されるごとに市内の書店から届けてもらい読み継いでいたのでした。
ローマ人の物語は長編の小説ですが、こうして私にとってもずいぶん長い読書生活になりました。ですから出版が完結した去年の秋には、届いた最後の3冊を前に少し寂しい気持になりました。

この大部の本を著した塩野七生さんは、ローマに在住の女性小説家で、1937年(昭和12年)のお生まれといいますから既に70歳を超えています。この大作は、1992年から書き続けられてようやく完成したのですが、完結後のインタビューで著者自身が語ったところによりますと、ローマの書斎で毎年1冊のペースで執筆し、半年以上を取材に費やし、そのあとの4か月ほどで書き上げるのだそうです。執筆では、毎日午前中の5時間だけを当て、全15巻は14年かけ、ようやく2006年に完結しました。ローマという地の利を活かしてヨーロッパ各地に散らばる歴史の現場に足を伸ばすとともに、ラテン語などの原典に目を通すなど、丹念な取材に裏打ちされた執筆だと思います。

ローマ人の物語では、普段よく耳にする歴史上の有名人も頻繁に登場します。カルタゴの将軍ハンニバルと、この猛将と戦った若きローマの将軍スキピオや、元老院と対立してルビコン川を渡ったカエサル(英名ではシーザー)、暗殺されたカエサルの若き後継者で初代皇帝となったアウグストゥス、さらにはエジプト、プトレマイオス王朝最後の女王で絶世の美女と謳われたクレオパトラなど、枚挙にいとまがありません。しかも、学校で習った世界史の教科書の無味乾燥した記述とは違い、登場人物の息遣いさえ伝わってきます。

多くの人がご存知のように、古代ローマ帝国は、紀元前753年にイタリア半島中部の小さな都市国家として生まれ、最盛期を迎えたのは2世紀、五賢帝の時代と呼ばれる安定した治世のもと、名君の一人トライアヌス帝のとき、ダキア(現在のルーマニアやハンガリーの一部)に勝利し領土は最大となりました。西は現在のイギリスの大半から東は中近東まで、北辺はドイツから中央ヨーロッパまで、南はエジプトからモロッコまでの北アフリカ全域で、地中海をぐるっと囲むドーナツ状の広大な領土を占めました。

ローマは、街道や橋、水道や、公衆浴場や劇場、円形闘技場などの社会基盤の整備でも有名です。因みに、基盤を意味する英語のインフラストラクチャーの語源は、ラテン語のインフラ(基盤、下部)とストゥルクトゥーラ(構造、建造)を現代になって合成したものだそうです。
紀元前8世紀から営々と築かれてきたこの国は、早い時期からインフラの整備に熱心に取り組みました。「すべての道はローマに通ず。」ということわざも有名ですが、例えば最初に整備が始まったアッピア街道は、紀元前268年に完成しました。街道は、領土の拡大につれて網の目のように全域に広がり、敷石舗装、幅員10メートルの幹線道路だけで8万キロ、一部が砂利舗装の支線を含めるとなんと15万キロにもなるそうです。現代の日本の国道延長が約6万キロですから、その規模の凄さがわかります。


街道や水道などのハードの基盤に加え、通貨制度や税制、医療、教育のほか、治安までの社会の仕組みとしてのソフト面のインフラ整備にも力を注いでいました。特に、平和、安全保障は社会の根幹を支える最も重要な基盤として、領域全体のローマによる平和、パクス・ロマーナの維持に零題の皇帝が腐心しました。
また、古代ローマの国家理念は寛容と融和の精神とされます。多民族国家としてこれほど長期にわたって繁栄したのは、戦いによって広がった領土、属州にも自治と多様性を認める融和策にあり、その有力者たちに対しても元老院議員の議席を用意するなど民族の融和を基本にしています。3世紀、カラカラ帝の時代には帝国内の全自由民にローマ市民権を付与しています。皇帝さえも、属州各地から輩出するようになります。

寛容、融和の精神を生む社会的な背景として、もともと多神教を基礎として、互いの信じる神を認め合っていたことが挙げられます。皇帝コンスタンティヌスの時代に、一神教のキリスト教がローマの国教として公認され、やがて他の宗教が排撃されるようになると、それまで保たれてきた寛容と融和の精神が失われ、古代ローマらしい多様性が無くなったと塩野さんは述べています。自由な精神の発露を宗教が阻害したのでしょう。
14世紀から15世紀にかけてイタリアを中心に起こり、ヨーロッパ各地に広がって近世、近代への扉を開けたルネサンス運動は、「暗黒の」という言葉を冠して呼ばれる中世に終止符を打つことになりましたが、古典文化や文芸の復興が叫ばれた運動の背景には古代ギリシャ、ローマが持っていた自由な精神への憧れがあり、キリスト教的な中世の固定観念からの解放という願いがあったものと思います。

古代ローマの公用語はラテン語でした。現在、日常で使われることがなく死語となっているこのラテン語は、今でも知識人の間では必須の教養とされていると聞いたことがあります。ヨーロッパでは、古代ローマに敬愛の念を抱く人が少なくないそうです。寛容と融和という普遍的な価値は時代を超えて人々に支持されるのでしょう。
こうしたローマ文明の持つ普遍性を知ったあと、あらためて現代の世界を見てみますと、国際経済のボーダレス化が広がっている一方で、民族間の紛争や宗教に端を発する争いが未だに絶えないことに虚しい思いがします。一体、私たち人間は歴史から何を学んできたのでしょう。

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