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三俣蓮華岳三市サミットの山行(平成21年11月)

 8月28日、大町市と富山市、それに高山市の境にあたる三俣蓮華岳の山小屋で、この三市の市長が相集い、山岳観光サミットが開かれました。もちろん長野、富山、岐阜の三県の県境でもある三俣蓮華での頂上会議は、中部山岳国立公園を市域に持つ三市にとっても、山をテーマとする会議はきわめて有意義なことであり、山岳観光や自然保護、山岳文化など広範にわたって意見を交換しました。
 ことの始まりは、昨年の秋に本県上田市で北信越市長会が開催された折、富山市の森雅志市長さんから提案されたもので、会議中、会場を移動するバスの中で隣り合わせに座った際にも改めて念押しされ、森市長の強い意気込みを感じました。
 会場となった三俣蓮華岳は、標高2,841m、名前のとおり三県の境に位置し、更には、黒部川、高瀬川そして高原川の三つの川へと流れ下る分水の山でもあります。
 会場の三俣蓮華山荘には、意気軒昂の首長を先頭に三市の登山隊が勢ぞろいし、いよいよ会議が始まりました。残念ながら、サミットの翌々日が衆議院総選挙に当ってしまい、高山市からは土野守市長さんに代わって荒井信一副市長さんの参加となりました。

◎第1日目
 今回の山行の日程は、行きは岐阜県側から最短コースを登ってサミット会場に向かい、サミットの翌日から、北へ縦走して野口五郎岳、烏帽子岳を経て大町へ帰るコースをとることにしました。都合、3日の行程です。
 サミット前日の27日は、ちょうど大町市で長野県市長会の総会をお引き受けし、その会合が終わった後、夜10時に大町を立ち、深夜、岐阜県の新穂高温泉に着き、駐車場のはずれにテントを設営し、夜明けまでひと時の仮眠をとりました。

 翌28日早朝、おにぎりで簡単に腹ごしらえをし、いよいよ出発です。身を包む一種の緊張感は、山の冷気のせいだけではありません。故障なく登れるだろうかという想いが頭をよぎり、気持ちが引き締まります。中学での燕岳登山や大町高校の全校登山以来、山に惹かれ、山岳部にこそ入りませんでしたが、大学や県庁時代には仲間とよく登っていました。しかし、ここ数年では針ノ木岳の慎太郎祭に二度参加し、針の木峠まで登っているだけでしたから、すっかり体がなまっているのではと心配だったのです。
 わさび平小屋の前を午前5時50分に出発。40リットルの大きなザックが肩だけでなく背中全体にずっしりと重くのしかかります。歩き始めの1時間はたっぷり汗をかきました。いつものことながら、なぜ山に来てしまったのかとの自分への疑念が浮かびます。しかし、今回は途中で止めるわけには行きません。山の上でサミットが待っていますから、午後3時のサミット開会に間に合うよう、なんとしても三俣蓮華山荘に行き着かなければなりません。山では時間のプレッシャーは相当きついものがありますが、意外にも足取りは軽く、行程も順調です。

 今回、私にとっていつもの山行きと違うのは、まず装備の充実です。衣類は上下ともポリエステル80%の吸湿、速乾、抗菌の優れもの。綿製とは異なり、いつまでも体が濡れていずに心地よく、気持が萎えることもありません。そしてメンバーも、長野県山岳協会副会長を務める市消防防災課の西田均課長を隊長に、ライチョウ研究の大町市立山岳博物館の宮野典夫副館長、アテンドをお願いした山案内人でもある大町山の会の若手、山内一成、傳刀章雄両氏など、充実の総勢7人です。
 また、休憩ごとにパルスオキシメーターという機器が取り出され、医学的チェックのため「血中酸素飽和度」を測定してもらい、高度への順応機能を検査されたことも今までの経験にはありませんでした。

 やがて汗も出なくなった頃、ようやく尾根筋に出、鏡平小屋に9時少し前に到着、3時間の登攀に一息入れました。しかし、雨にはならないものの、依然として眺望はなかなか開けず、視線は足元の地面に向かい、つい、うつむきがちになります。学生時代には、こうした山登りの苦行を、確か「アルバイト」と称していました。山登りで人が高みに上ろうとする行為は、人間の根源的な願望ともいわれますが、高みに達するためには、当然のことながら、一歩づつ地に足の着いた地道な努力が必要だと改めて思い直します。

 いよいよ県境の稜線に至り、双六小屋に到着、ここからはわが大町市域に入ります。小休止の後、双六岳の山頂を迂回し、視界の開けない中、先を急ぎます。三俣蓮華の山頂も、明朝計画される記念登山の楽しみに残しておきます。
 ようやく午後2時25分、予定時刻の少し前に三俣山荘に無事到着。小屋の前ではご主人の伊藤正一さんが笑顔で出迎えてくれました。森市長、荒井副市長さんはともに到着済みで、挨拶もそこそこに装備を解き、ほっと一息入れました。
 富山隊は自主参加やテレビクルーを含めた21人もの大部隊で、見事な陣容。大町隊も、人数では見劣りするものの、隊の力量では決して負けないと、妙なところに競争心が頭をもたげます。

◎山岳サミット
 さて、3時からのサミットは、三市の代表団とともに泊りの登山客も大勢参加して、会場となった食堂は満杯の状態です。初めに、森富山市長が提案者として会議の口火を切り、「三俣蓮華岳は三県の県境であるとともに、市町村合併により三市の市境にもなった。今日のサミットをきっかけに、今後互いに連携して将来に向け山岳観光や登山者に喜んでもらえる取り組みについて考えてゆきたい。」と述べ、安全な山岳観光の見地から環境整備を進めるための初めての機会として、有意義な会議としたい旨挨拶しました。森市長さんは、50歳になってから山歩きに目覚められたと伺いますが、山に寄せる熱い思いが鮮明に伝わってくるご挨拶でした。

 会議では、それぞれの市の山岳観光の現状や、登山道の整備、トイレなど山小屋の整備、さらには自然環境の保全に係る取り組みなどについて、さまざまに意見交換が行われました。森市長は、登山道の管理について、とりわけ県境の稜線にまたがる登山道の管理体制が不明確だと指摘され、登山道で発生する山岳事故の責任の所在について、今後法的な面を含め検討を深めることとなりました。

 私からは、近年、中高年者に加え、女性を含めた若年層も増加している状況から、トイレを中心に山小屋設備の改善を提案しました。大町市内で環境活動を実践されている赤羽英男氏が推奨するEM菌の活用実績についても紹介し、山小屋でEM菌を消臭や減容に活用する事例が増えていることを報告しました。
 大町市は、平成14年、自然との共生をうたった「山岳文化都市」を宣言しており、山岳博物館の活動を中心に、文字通り山岳文化の発信地となっています。会議では、登山を単に観光として捉えるだけではなく、文化として位置づけ、振興を図る視点も必要との意見が出され、私も大いに共感しました。

 会議には、三俣山荘の伊藤さんはじめ、周辺の山小屋の経営者の皆さんも出席されていて、山小屋としての取り組みや昔懐かしい話、山小屋経営の苦労話を伺いました。登山者の安全確保のため定期的に鎖場の整備を行っていることや、登山道の侵食により後退した植生の再生に取組んでいることなどが報告されました。また、野口五郎小屋の上條盛親さんからは、アクセスの2次交通の利便性の改善について問題提起されました。行政としても、関係の皆さんと連携して考えていかなければならない課題です。
 サミットの締めくくりとして、三市の担当課でよく練り上げ準備した「山岳観光の振興のため、安全登山の環境整備や自然環境保護に努め、三市が協力して一層の地域連携を進める。」という内容のサミット宣言を、私から朗読して提案し、参加者全員の拍手で採択しました。

◎第2日目
 翌29日朝、前夜のサミット後の懇談会の余韻を多少残して目覚めると、窓の外は雨。予定していた三俣蓮華頂上への記念登山は見送り、三市の隊はそれぞれに先を急ぐこととなりました。大町隊も雨具に身を固め、北へ向け出発。鷲羽岳の登頂は断念し、黒部川源流経由で、水晶小屋、野口五郎岳を目指します。三俣山荘を出てまもなく、黒部川の源流の碑に立ち寄り、しばし休憩。日本海へ注ぐ富山平野の河口付近では暴れ川の様相を呈する黒部川も、ここでは湧き水程度の穏やかな細流です。このあたりの渓流は、イワナが住むには絶好の環境で、昨夜の懇談会で三俣山荘の伊藤さんは、昔は夥しい数のイワナがいて川に近づくと魚の匂いがしたと話していました。

 雨も少し小降りになり、一行は黙々と歩き続けます。こうした悪天候の中にも天の配剤はあり、ライチョウのお出ましです。この日一日で5回、数にして15羽も出会うことができました。前後の晴れの日には一羽もお目にかかれなかったことを考えますと、やはりライチョウは霧の中で遭遇するものだと合点しました。この時期には春に生まれた雛も成鳥とほぼ同じ大きさに育っており、同じ群れの中でもなかなか見分けが付きません。ライチョウ研究の第一人者の宮野副館長によりますと、成鳥と子どもの見分け方は、尻尾の形状で判別できるとのこと。成鳥の尾は先端が平になっているのに対し、子どものは隅が斜めになっているとのことでした。

 水晶小屋で温かいおもてなしをいただき、濡れた体をしばし休め元気をとり戻します。小屋を出て間もなく雨が上がり、ようやく雨具を脱ぎますと急に体全体が解放され、不思議なくらい身軽な気持になりました。まだ、視界はあまり開けないものの、県境の稜線を歩く気分は爽快です。

 山を歩いているときには、ひたすら歩くことに専念して、ただ無心になっているかと言うと、さにあらず、いろいろなことが頭に浮かんでくるものです。たいていのことは浮かんでもすぐに消えてしまいますが、たまに記憶に残るものもあります。水晶小屋から続く痩せ尾根を慎重にバランスをとりながら歩いているとき、ある考えが浮かびました。岩の上を歩くときなど、体のバランスを維持するには平衡感覚が大切です。平衡を保つには、目の前の岩であったり、地面であったり、対象物が必要です。そこで、人間の考えについてもこれと同じで、均衡の取れた考え方というものは、他の人との相対比較の中で安定するのではないかと・・・。

 さて、真砂岳を経て野口五郎岳の山頂に着くと、野口五郎小屋が間近かに見えてきます。この頃になると晴れ間がでてきて、気持ちのよい縦走路を辿り小屋まで一気に下ります。午後2時少し前、今夜の宿に着きました。小屋の前の崖淵に立ちますと、ちょうど長野県側の雲の中にブロッケンが現れました。雲間に西からの日の光を受け、虹彩に包まれる自分の姿を眺めながら、しばし敬虔な気持に浸ります。山に対して抱く敬虔な気持について、近代登山の黎明期の偉人、大町の対山館主百瀬慎太郎翁の言葉があります。少し表記を分りやすく直して書きますと、「山は万有であり、神秘であり、無限であった。ああ、無窮に偉大なる山の人格よ。少なくとも私は、大自然の玉座の前にひれ伏して執実な祈祷を捧げ得るだけの真心と信仰をもっている。」と言う言葉で、「後立山連峰逆走記(・・・)」に記されているそうです。私は、一昨年刊行された針ノ木岳慎太郎祭50年の記念誌の中で読んだ峯村隆さんの文章で知りました。山の自然は悠久で神秘であり、人間はその前では自然に謙虚になることを実感しました。

 小屋の前の砂地にはトウヤクリンドウの株が群生していて、そのうちのほんの2〜3株だけが花を開いています。この花はつぼみを開いている姿を見るのは少ないとのことで、しばし花のそばに佇み、見入ってしまいました。
 花と言えば、8月末の夏山シーズンの終盤にもかかわらず、多くの可憐な花に出会いました。高山植物の女王と呼ばれるコマクサは、野口五郎岳から三ッ岳周辺に見事な群落を見せていましたし、エーデルワイスの仲間ミネウスユキソウは烏帽子岳の登り口に清楚に咲いていました。また、イブキジャコウソウはピンクの花が群落を形成し華やかな雰囲気を漂わせています。宮野副館長によれば、下界でも高瀬川の川原に群生しており、子どもたちは保健室のにおい、つまり、ハッカなどの薬のにおいだと言うそうです。この他にもイワギキョウ、ハクサンフウロなど、山は最盛期に負けない数え切れないほどの花々に満ち溢れていました。早い秋の気配もそこここにあり、シラタマノキはまんまるの白い実をつけていました。

 山小屋での夕食は、一日の山歩きの疲れを癒すひと時で、大いに盛り上がるのが常ですが、今日の夕餉は楽しさはひとしおでした。ご主人の上條さんとは昨日のサミットからご一緒いただいており、小屋の皆さん挙げての交歓の機会となりました。ビールを囲んでの懇談は、そのまま即席の出前講座となり、泊り客の皆さんとともに、宮野副館長の専門的な講話に時間の経つのも忘れ聞き入りました。夜が更けるに連れアルコールが進み、空気が薄いことも手伝って、布団に入った時間もよく覚えていないほどで、適度の疲れに包まれ心地よい熟睡の一夜でした。

◎第3日目
 翌朝は、さらに北に進みます。三ッ岳を経て、眺望のよい尾根道を辿り、烏帽子小屋に到着。ご主人の上條文吾さんが小屋の前に出て温かく迎えてくれました。前庭の白いコマクサを眺めながら、心づくしのホットコーヒーをいただき、重装備を小屋に預けて軽装で烏帽子山頂へ向かいます。山頂は切り立った岩場となっていて、さすがにここは慎重に登ります。久しぶりに、昔習った三点支持の原則を思い出し、慎重に慎重にと自分に言い聞かせながら、一歩づつ体を持上げます。やっとの思いで花崗岩の白い岩の頂上に着きました。そこから北への縦走路を眺めますと人影は少なく、船窪、七倉、北葛など、静かな山々が続くだけに、いつかこの道を辿っていきたいと思いました。後ろ髪を引かれる思いで、さっき来た道を取って返します。烏帽子小屋からは、出発の日よりだいぶ軽くなったザックを再び背負い、ブナ立て尾根を下ります。日本三大急登りと言われる名だたる険しさだけあって、下るにも汗だくになりました。この道を登ってくるには相当の決心がいると改めて思います。それだけに、高瀬ダムの湛水湖畔の広い砂地が見えてきたときには心が踊る思いがしました。
 登山の終わりの定番は温泉です。葛温泉高瀬館にお世話になり、乳酸のたまった体全体の筋肉をお湯に浸して伸ばし、ひげを剃って心身ともさっぱりしてから、妻の待つ家路に就いたのでした。

 サミットの山行から帰って、しばらくしてのこと、1冊の本を読みました。梅棹忠夫著「山をたのしむ」という本で、知の巨人と称えられる梅棹先生は、国立民族学博物館の館長をお務めになり、現在は顧問をされておられますが、山岳地帯を含め世界各地の学術探検において数々の業績を残されている方です。旧制京都一中時代から登山を始められ、旧制高校や大学の登山史を自ら刻んでこられた先生が、たまたまご縁があって大町山岳博物館の企画展「アルピニズム誕生・鹿島槍登山史」の計画を耳にされ、上梓されたばかりのご本を私に下さったのです。

 その中に、民族学博物館名誉教授の小山修三先生との「山に魅せられて」という対談が収載されていて、自らを「終生登山家」と称され、クライマーではなくマウンテニーア(登山家)として山と向かい合って来られた梅棹先生は、「山は高さだけが問題ではない。大切なのは未知への探求(デジデリアム・インコグニチ)だ。」とおっしゃっています。
 もちろん、私たちが登る山には最早、探検の対象となるような未知はありようもないのですが、本能に指図されるかのようにただ高みに登るのではなく、山への探究心、好奇心を抱きながら山へ入ることを心がけようと改めて思いました。そして、こうした視点が、大町市が都市像として中心に据える山岳文化都市の実現に、一歩近づくことになると確信するのです。

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