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大町高校関東同窓会に出席して(平成21年8月)

 先月のある土曜日、東京新宿で大町高校関東同窓会が開かれ、大町高校の卒業生で、現在、東京など、関東圏にご在住の卒業生約100人もの会員が出席し、盛大な集まりとなりました。私も以前からお誘いを頂いており、何を措いてもと、大町の本会の奥村剛会長とともに伺いました。
 関東同窓会長の吉丸昌昭さんは、映像作家として、「ディーバ故郷を歌う」の映画などで知られています。ご存知の方も多いと思いますが、吉丸さんのお祖父さんは作詞家吉丸一昌で、一昌は大町高校の校歌を作詞したほか、あづみ野を舞台とする「早春賦」の作詞で有名です。

 開会セレモニーは、新進気鋭のソプラノ歌手田辺千恵子さんの、校歌の独唱で始まりました。ちなみに田辺さんは98年(高校50回)卒業で、新潟大学教育学部に進み、声楽を勉強され、03年には同県音楽コンクールで部門最高位の知事賞を受賞されており、現在、合唱団の指導や講師を務めるかたわら、ソリストとしてコンサートなどに出演されています。出身地大町でも、つい先日、文化会館でミニコンサートを開いたばかりです。
 お見受けしますと、ほっそりとした姿からは想像もできないくらい声量豊かなソプラノの清々しい歌声に聞きほれてしまいました。

 当日会場で、私も大勢の年配の会員の方とお話させていただきました。OBの皆さんは皆一様にお元気で、出席者の最長老は、昭和15年、旧制中学35回ご卒業の奥原徳太郎さんで、お年は88歳、太平洋戦争末期の昭和18年には、学徒動員で出征されたご経験の持ち主です。学業半ばで出陣した往時の記録を整理されメモにした資料を会場で頂き、戦争の悲惨な体験をお聞きしました。後で資料を読ませていただきましたが、奥原さんは、戦況厳しさを増す昭和18年10月、神宮外苑で行われた壮行会で激励を受け、翌年9月輸送船に乗船し南方戦線に向け出航。米軍の攻撃を受けつつ苦心の末、マニラ港にたどり着いたものの、反転して再び台湾に戻り、そこで終戦を迎えたということでした。高校、大学と、青春の最も多感な時期を戦時下で送られた先輩の言葉に、勉学に専念できる今日の平和のありがたさを改めて教えられました。

 また、昭和34年、高11回卒の南部直樹さんは、母校の校歌を研究されていて、詳細な資料を頂きました。それによりますと、大町高校の校歌はもともと3番まであったものの、終戦直後の南部さんの時には2番で終わっていたのだそうです。再び3番まで歌われている今の校歌は、戦前の校歌のうち3番の歌詞に手を加え新たな3番として復活したとのこと。確か、私も以前、校歌は平和の時代の到来にあわせ、平和国家にふさわしい歌詞に変えられていると聞いたことがありました。思いますに「伸び行く国の平和(やわらぎ)は我が双肩に懸かりたり」のあたりではないかと思います。南部さんのお話で、しばらくの間、母校の校歌が2番で終わっていた時期があったことを初めて知りました。

 当日、私が一番心動かされましたのは、大勢のOBの皆さんが今なお若々しさを保ち、同窓の仲間と意気盛んに交流交歓されていたこと、また、郷土に対する深い想いをお持ちになっていることでした。在学時、同級生であればなおのこと、たとえ年次が違っていても同じ大町の学窓で学び、苦楽をともにした仲間としての共感から、母校を想う気持は皆さん同じということを強く感じました。

 私はご挨拶で、「大町高校は県立高校全体の再編計画の中で、平成30年までに大町北高と一緒になり、新しい高校としてスタートすることになります。しかし、大町高校の伝統と精神というものは、新しい高校の生徒の皆さんにきっと脈々と受継がれていくものと思います。」と申しあげました。もちろん、北高の伝統も同じように受継がれていくことでしょう。美しく豊かな自然に恵まれた郷土に育まれ、この地、この校舎で学んだという記憶は、愛校心として、時を経ても、また遠い異郷にあっても薄れることなく、卒業生一人ひとりの中に心のよりどころとして残り続けるものだと確信しました。

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