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早春賦に寄せて(平成20年3月)

 春は名のみの風の寒さや、で始まるこの名曲の歌詞は、歌の発祥の地、大町の早春の情景そのままです。2月の節分を過ぎ、立春を迎えてもいっこうに春めきもせず、3月に入ってさえも、野も山も真っ白な雪にすっぽりと覆われているのが大町です。さすがに3月の中旬を過ぎますと陽射しも確かになって、里の雪解けも進みますが、振り仰ぐ北アルプスから吹き下ろす風はなお寒く、膚を刺すほどに感じられます。
 早春賦のまち大町には、市の文化会館の前に「早春賦の歌碑」が建てられています。この歌を作詞した吉丸一昌は、私の母校でもある大町高校(旧制大町中学)の校歌の作詞者でもあり、大町では早春賦を身近な愛唱歌として口ずさむ市民も多いのです。

 明治44年、東京音楽学校の教授だった吉丸は、大町中学開校10周年を記念して校歌の作詞を依頼されて早春の大町を訪れ、その時の情景を詠んだといわれています。一説によりますと、吉丸は、長野市から美麻村(現大町市美麻地区)を抜け、大町市三日町の手前に到り、谷あいから眼前にそびえる残雪の北アルプスを望み、その光景を詩にしたといいます。また、ある人は、同じ美麻地区の蕎麦で有名な新行から稲尾に抜け、木崎湖畔の情景を詠んだのではないかといいます。なるほど、そのいずれの地も、風情豊かな大町の代表的な風景であり、安曇野の北端に降り立った吉丸の詩情を掻き立てたとしても不思議はありません。もっとも、お隣の安曇野市でも、歌碑が建立され早春賦のイベントが行われていますが、大町の皆さんは、「本家はうち」ときっぱり断言するでしょう。※2これらの説については残念ながら、歴史的な事実として確認されてはおらず、吉丸は当地方を訪れることなく教え子からの情報に基づき作詞したものとの研究者の説があります。

 ところで、昨年の8月、この早春賦をテーマに製作された映画の上映会が、文化会館のホールでありました。「二つの故国をつなぐ歌〜ディーヴァ早春賦をうたう〜」で、このドキュメンタリー映画の製作者、吉丸昌昭氏は、吉丸一昌の孫にあたる方です。
 先年、大津波に襲われ壊滅的な被害を受けたインドネシアのスマトラ島に、早春賦を歌う少女がいました。この少女の名前がディーヴァ。少女に日本の歌を教えた祖母のサクラさんは、早春賦の作詞者・吉丸一昌の次男である※1昌言(まさのぶ)が太平洋戦争中に滞在した同地の女性との間に生まれました。サクラさんは、戦争によって引き起こされた不幸を背負いつつも、父の国日本を想い、父、母から教えられた二つの故国をつなぐ「早春賦」を孫娘に伝えました。

 津波は、幼い妹の命をも奪い去りましたが、ディーヴァはこの歌を心の支えに、妹を失った悲しみから立ち直り、生きる勇気を取り戻したのです。時代を超え、国境を越え、雪を見ることもなく、膚刺す寒風も知らない常夏の島スマトラで、可憐な少女が澄んだ声で歌う早春賦が、とても印象的に心に染みました。

 三寒四温のことわざのように、3月になってもお彼岸頃までは寒さの戻りがあり油断できませんが、さすがに雪深い大町も厳冬に逆戻りすることはありません。冬が厳しいゆえに、雪国の人々が、春を待ち焦がれ、春の訪れを喜ぶ気持はひとしおです。

※1 平成20年9月30日訂正 訂正前の記載「一昌が太平洋戦争中に滞在した・・・」
※2 平成27年2月6日一文追加 「これらの説については・・・」

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