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大町市。北アルプスの麓、信濃大町。 
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更新日: 2007年6月25日

慎太郎祭と「ヒラタケ先生」の思い出

今年も、北アルプス北部の夏山シーズンの幕開きを告げる針ノ木岳慎太郎祭が6月3日に開かれました。
 当日は少し雲が気がかりでしたが、好天に恵まれ、また、今年は50周年の記念となるお祭りで、400人もの方が参加されました。お祭りの会場は、針ノ木大雪渓の最下部の雪の上に設けられ、大会長の山本携挙さんや、祭りの「祭神」である百瀬慎太郎氏のお孫さんの堯さん、大町山岳会などの皆さんが居並ぶ中、厳粛な神事が行われました。

 私も本当に久しぶり、確か30年ぶりで参加しました。私のいでたちはと言うと、あわてて買いに行った山ズボンに、あり合わせのカッターシャツ、靴は30年も前にその月の給料の大半を注ぎ込んだ年季入りで、なお現役の登山靴、足周りには雪が入らないようにスパッツ。そして手には、昔使い慣れたピッケル。久しぶりに倉庫から出し、乾拭きして持ってきましたが、しっかり亜麻仁油が染み込み、いい色になっています。山の下りには、これで体を支え、グリセードで滑り降りてくる魂胆です。
 開山祭の神事、式典の後の記念登山では、参加者は班に分かれて標高およそ2,536mの針ノ木峠を目指します。以前は、針ノ木や蓮華岳の山頂まで登っていたとのことですが、最近では記念登山は峠まで。それでも、歩き始めから峠までの約3時間のコースはすべて雪渓の上、この山の人気の秘密もここにあるのだと思います。

針ノ木岳慎太郎祭に参加して
針ノ木岳慎太郎祭に参加して

 一昨年までは、仲間と南アルプスや中央アルプスを歩いたりしていた私ですが、ここ1年は山はおろか、里でも体を動かす機会が少なく、今回の山はきつそうです。いつものことながら、そして誰でもがそうだと思いますが、歩き始めの30分間は、「やっぱ、やめとけばよかった。」などと内心思いながらも、自分を励まし励まし登ります。次第に歩調がつかめるようになると、徐々に標高を稼ぎ、気づかないうちに鳴沢岳、岩小屋沢岳の峰々も目の高さに近づいてきました。
 峠直下の最後の登りは、ほとんど直登で、雪がなければこのような急勾配には登山路は不可能でしょう。息も絶え絶えに、同行の駒沢氏に遅れまいと、雪の上に刻まれたステップの歩数を数えつつ登ります。ようやく峠に着いた時には汗だくで、もうこれ以上登ることはないのだと言い聞かせつつ、腰を下ろしてまずビール、一息着いてようやく人心地がつきました。
針ノ木岳慎太郎祭に参加して
針ノ木岳慎太郎祭に参加して

 さて、昭和33年に第1回が開催されて以来、今年50周年を迎えるにあたって、この祭りを担ってこられた大勢の皆さんの手によって記念誌が刊行されました。その中では、日本における近代登山の黎明期に、北アルプス開拓の先駆者となられた百瀬慎太郎氏の偉大な業績とともに、この祭りの創案者で自らも岳人であった平林武夫先生、通称ヒラタケ先生について、何人もの方が詳しく語られています。山本大会長さんも、「ゴム長靴」や「生らっきょう」の話など、楽しいエピソードを交えて思い出を綴られています。この文章を読んでいるうちに、ヒラタケ先生の思い出が突然、私の胸に浮かんできたのです。先生は、私の中学のときの校長で、当時、生徒からすればもちろん雲の上の人でしたが、不思議と威圧感など微塵も感じさせない人柄で、むしろ権威とは無縁の飄々とした方でした。当時私の母なども、親しみを込めて「ヒラタケ先生」と呼んでいたのを思い出します。

 じつは、私は中学生のとき、ヒラタケ先生が大切にしていた校内の楢の木を倒してしまったことがあるのです。木のあった場所は、今でも西公園に当時のままの姿で建っている体育館のすぐ東北側のところで、放課後の掃除の時間、掃き掃除に飽きて、仲間と近くにあった楢の木の枝にぶら下がって遊んでいました。「悪がき」が3人もぶら下がったものですから、重さに耐えかねたのでしょう、根元から見事に折れ、倒れてしまったのです。そのときは、校長先生が大切にしている木などとはつゆ知らず、隠していてもいずればれることと思い、担任の宮沢孝先生に正直に申し出たのですが、そのとき、先生から、この木は校長先生が大切にしている木だと、ちょっと困った顔で教えられたのです。楢の木など、木としても珍しくもなく、山へ行けば薪にするほど繁っていますが、野山を歩くのが好きだったヒラタケ先生ですから、特別な思いもあったのでしょう。宮沢先生は、思案の表情を浮かべながら、ま、なんとか校長先生に話してみる、ということになったのです。

 庭に戻った「悪がき」達は、ことの重大さと、宮沢先生に申し訳ない思いに駆られ、倒れてしまった木を眺め、どうしようなどと言っているうちに、この木の処理方法が私の頭にひらめいたのです。その木は雑木には珍しく、幹がすっくと伸び、ちょうど木の杭を作るのに適していたのです。そこで早速木工室から鉈と鋸を借りてきて、たちまち3、4本の杭を作ったのでした。

 その木杭を、報告を聞いたヒラタケ先生が見に来て、木を倒したことはまったく気に留めず、杭の出来ばえを褒めてくださったそうです。それも、杭作りの定法、必ず木の元の方を下にする、つまり「逆さ杭」になっていないことを見て感心してくれたのです。このことは、親にも内緒にしておいたのですが、しばらく後になって、母がPTAの会合か何かで、このことをヒラタケ先生から直接聞き、家に帰ってからひと言いわれはしましたが、時間が経っていたこともあって、母からも叱られはしませんでした。ただ、あの一件の首謀者が私であったことがヒラタケ先生にはお見通しで、また、親にもばれてしまったことは冷や汗ものでした。今となっては、懐かしくも、ちょっと酸っぱい思い出です。ヒラタケ先生も今頃きっと、蓮華岳あたりの雲の上で、好物のお手製らっきょうを肴に、お神酒に上げた樽酒の残りで一杯やりながら、時折、下界を眺めては来し方を懐かしんでいられることでしょう。
 
さて、山登りのおわり、山を下ってくるとき、きまって私は寂寥感に襲われます。「ああ、もうこの楽しい山行きも終わってしまうのか。」と。今朝登り始めた時とは正反対の感慨です。慎太郎氏は、明治44年に初めて針ノ木峠に立ったときの気持ちを、「寂寥そのものであり、その寂しさは他では味はれない魅力のように思はれた。」と語ったそうですが、私の場合、この山の終わりの寂しさが、「また山に来よう。」という、次の山行きに繋がるのです。
 祭りを締めくくる閉会式場の下山口で、いまや名物となった恒例のお汁粉のおもてなしをいただきながら、この慎太郎祭が、山を愛してやまない、より多くの人々によって、ずっとずっと未来に受継がれていくことを心から願ったのでした。

  6月19日 市長室にて

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